これの続き

からん、と氷が溶ける涼やかな音がした。割と度数が高い酒を一気に半分以上飲み干した男を見て、今をときめくトップアイドル(と週刊誌や新聞は持て囃す。自分で言い出したことではないので妙にむず痒い)と評される男――神宮寺レンはどうしたものかと小さく溜息を吐いた。
元来、隣に座る男はこんな風に酒を飲むような男ではなかった。飲むにしても嗜む程度で、今のように俗に言う自棄酒のような飲み方をするなんて絶対になかった。いや、知らなかっただけなのかもしれないが、それにしたって。
「イッチー」
「…なんですか」
やべえ、目が据わってる。
「あのさ、そこまでにしておいたら?明日も仕事だろう」
「レンには関係のないことでしょう。放っておいてください」
「放っておけって言われてもなあ…」
元々世話焼きな自覚があるレンである。よく分からない酔い方をしているトキヤを放って帰ることなど出来るはずがなかった。まあ、明日はオフであるし、今日はとことん付き合ってやろうと本腰を入れることにする。
「ま、理由は大体察しがつくけどね。レディのことだろ?」
ぴくり、と大袈裟にトキヤの肩が動く。どうやら図星だったようだ。とても分かり難いトキヤをここまで分り易くさせるなんてある意味才能である、とレンは春歌に賞賛を送りたくなる。
七海春歌。それは一ノ瀬トキヤの恋人の名前だった。
そしてレンの高校時代の同級生でもある。類まれなる作曲センスを持つ、明るく常に笑顔で誰からも愛されていた少女。そのくせ頑固で一途で、一度決めたことは必ず最後までやり遂げる強情さも兼ね備えていた。特殊な一年間だけの高校生活において、彼女は一ノ瀬トキヤの最大で最高のパートナーであった。冷静沈着と呼ばれ滅多に表情が変わることがないことで有名だったトキヤの表情を崩すことが出来たのは春歌だけであったし、同じように春歌の持ちあわせる最上級の笑顔を引き出すことが出来るのもトキヤだけであった。お互いがお互いを慈しみ合い高めあう、傍から見ていてもこれ以上にないくらいお似合いの二人だと、羨ましいとすら思っていたのだ。
その均衡は崩れたのは今からどれくらい前の話だったろう。常にトキヤの傍らにいた存在が姿を消した。本当に突然のことだった。前日までちゃんと其処にいて会話を交わしていたのに、目を覚ました次の日にはもう何処にもいなかったのだ。
あの時の音也の慌てようは言い方は悪いがある意味、見物ですらあった。慌てに慌て片っ端から電話をかけ、必死に手掛かりを探そうとしていた。もしかしたら音也は春歌のことが好きだったのかもしれない。だからあそこまで必死になったのではなかったか。すべて憶測にすぎなかったが、強ち間違っていないのだろうとレンは思っている。
対してトキヤは対して慌てたような素振りを見せなかった。まるでそうなることがわかっていたかのようだった。春歌がいないんだ、どこにも!慟哭のような叫び声にもそうですか、とたった一言返しただけで。音也は最初その態度に激しい苛立ちを覚えていたようで、見ているこっちがハラハラするほど険悪なムードが漂っていたことを覚えている。
けれど、いくらトキヤが落ち着いているように見えたといったって、結局は「そう見えるだけ」なのだ。レンは知っている。何時もは冷静沈着でミスなんて一つも起こさないようなこの男が常にどこか上の空で通常では考えられないようなミスを繰り返していたこと。ピアノを見つめてどこか淋しそうな顔をしていたこと。彼女がいなくなってからの一年間は決してピアノソロ曲を歌わなかったということ。それがどれだけ表面に出ないからといって、何も考えていない、何も感じていないというのは全くの嘘だ。見えないだけ、こちらに伝わらないだけで、当事者にとっては間違いなくそこにある痛みなのだ。
春歌がいなくなってから一度だけ、トキヤと春歌について話をしたことがある。ぽつりぽつりと彼女が音を紡げなくなったという話をした後、トキヤはゆっくりと瞼を下ろして深く息を吐いた。生きている、それだけで身が震えるほどに嬉しいのです。私はもうそれ以上は望みません。戻ってきて欲しいとも、もう一度隣にいて欲しいとも、願いません。そう願うことこそが彼女の負担になるのならば、全部なかったことにします。だから、だから。何処か私の知らない遠い所で穏やかに生きていてくれさえすれば、もう他には何も。遠くから見守ることすら、出来なくても。
その時思ったのだ。ああ、この一ノ瀬トキヤという男は周りが思っている以上に春歌のことが好きで大切なのだと。
好きだと愛を囁くことだけが愛情か。愛を囁いて隣にいて手を繋いで、何時までも一緒にいることが愛情か。違うのだろう。手を離すことだって、もう二度と関わらないようにすることだって愛情の一つには変わりない。トキヤは後者を選んだ。それだけの話だ。
だから、春歌が帰ってきた時は、本当に嬉しかった。困ったようにでも嬉しそうにトキヤの隣で微笑んでいる彼女を見た時、漸く世界が元に戻ったとすら思った。トキヤの隣にあるために戻ってきたのではないにしろ、トキヤの世界に春歌はやっぱり必要なのだ。おかえり、とは言えなかったから、いらっしゃい。ようこそオレたちの世界へ。その言葉を聞いた時の春歌の笑顔は、色鮮やかに瞬く間に世界を塗り替える。
「で、レディがどうかしたのかい?」
「…先日、結婚して欲しいと言いました」
「…レディにかい?」
「他に誰がいるんですか」
酔っぱらいの反撃は怖い。地を這うようなどす黒い声音は薄ら寒いものがある。
「ゴメンゴメン、そういうつもりじゃなくってさ。でも、そうか、遂にイッチーがね…。まあ時間の問題だとは思っていたけど。で、返事は?」
「考えさせてください、と言われました」
「は?」
「考えさせてくださいと言われたのです」
トキヤの顔がガツンと嫌な音を立ててカウンターに沈んだ。遠くでグラスを磨いていたバーのマスターでさえその音に気付いたようだ。目を丸くして此方を見つめている。
だからコイツこんなに荒れているのか。
気持ちはすごくよく分かる。男にとってプロポーズは一世一代の大勝負と言っても過言ではない。ドラマの撮影でその言葉を口にするだけでもとんでもない労力を使うのに、それが本命に対してだったら一体どれだけの労力を使い果たすのか、未だ経験がないレンにとって未知の領域だった。
でも、とレンは思う。春歌ならきっとそう返すだろうと。誰にも告げず行方を晦ましたような女だ。そう簡単に返事を返すとも思えない。きっとそれはトキヤも同じだろう。      トキヤはレン以上に春歌のことを分かっている。ずっと春歌の隣にいた男なのだ、春歌がどんな返事を返すかなんて誰よりも理解しているに違いない。
だったら、なぜ。
「…春歌がどんな返事をするのか、分かっていました。きっとそう返事をするのだろうとも考えていました。でも、駄目ですね。分かってはいても、実際にその言葉を聞いたら予想外にショックを受けている自分がいました。阿呆みたいだと思います。勝手に傷ついている」
「…イッチー」
「…多分、私は。春歌も同じ気持ちだと思っていたかったのです」
春歌もトキヤも互いが互いに思いやっているのに、どこか距離を置いている。春歌はトキヤに優しい。トキヤも春歌に対して誠実だ。とても穏やかな関係はけれどもどこか不安定に見える。お互いがお互いをこんなに思いやっているのに、何かを怖がって先に進むことを躊躇っている。
大切で大切で大切すぎて。何をどうすればいいのか、きっと二人は分からない。
春歌がどこか遠いところへ消えた時。トキヤは何もしなかった。縋ることも、声をかけることも、探すことも何もしなかった。泣くことさえしなかったのだ。それが春歌のためだと頑なに信じていたからだろう。トキヤにとって愛情とは手を繋ぐことではなく、手を離すことだった。手を離して何処か遠い所で憂いもなく過ごしていることを祈ることこそ、トキヤにとっての愛情であり祈りだった。だから分からない。こういう時にどうしたらいいのか。また手を離すほうがいいのか、それとも今度は手を繋ごうとしてもいいのか。トキヤには分からないのだ。
馬鹿だなあ、とレンは小さな笑いを零した。どうしたいかなんてそんなのいちいち悩むようなことではない。自分がしたいことをそのまま行動に起こせばいい。あとはどうにでもなる。トキヤは変な所で真面目だから、人よりも余計に多く迷ってしまうんだろう。――その迷いが少しだけ羨ましいと思ってしまうのは仕方ないことにした。
「イッチーはどうしたいんだい?」
「え?」
「イッチーはどうしたいんだいって聞いてるんだ。いいかい。誰かにとって何が一番いいのかじゃない。お前が一番どうしたいかって聞いてるんだ。恋愛って誰かに遠慮してするものか?違うだろ?遠慮しながら恋愛ができたら誰だって苦労しないし傷つくことも何もない。遠慮しながら恋愛なんてできないから、みんな傷ついて遠回りして苦労するんだ。それをしないで恋愛を成功させようとするのは到底無理な話だろう?」
「レン、」 
「イッチーはね、遠慮しすぎなんだ。自分のことを考えるよりもまず誰かのことを考えてしまう。それが悪いことだとは言えないし、オレは思えないよ。でもさ、そうやったっていいことなんてきっと何一つない。大切なのは、彼女がどう思うかではなくて、自分がどうしたいかじゃないかい?オレは何か間違えているかな」
トキヤはゆるゆると顔を上げた。心なしか赤くなっている瞳は真っ直ぐだった。
「…そうですね、レン。有難う御座います…私は臆病だから、先に進むことを躊躇ってばかりだ」
トキヤが臆病だというならそれ以上の臆病は春歌だろう。臆病同士お似合いではないかとレンは笑った。
レンはトキヤのことも春歌のことも大切だ。出来ることならずっと二人でしあわせでいて欲しいと思う。健やかになんの憂いもなく生きていって欲しいと思う。きっとレン以外の人間だってそう思っている。
以前音也と言葉を交わしたことがある。
俺さ、最初すっごい腹立ってたんだよね。トキヤのやつ、春歌がいなくなったって全然態度変わらないんだもん。なんでもないよって顔してるから、全然平気なんだって、春歌のこと大切じゃなかったんだって思って、すっごいすっごい腹が立ったよ。でもさ、違うんだよね。全然平気、なわけなかったんだ。トキヤは俺以上に春歌のことが大切で大切で仕方なかっただけなんだね。見えないだけで本当は心配でたまらなかったんだ。嶺ちゃんが春歌の居場所見つけてくれた時、トキヤ、暫く迷ってたみたいだけど結局走っていったよ。一番会いたいひとのところへ、愛しいひとのところへ走っていった。…敵わないなあって、思ったんだ。ねえ、レン。二人がしあわせになるといいね。別々にしあわせになるんじゃなくて、一緒にしあわせになると、いいね。
しあわせになるさ、きっと。レンがそう言うと音也はふわりと花が開くような笑顔で笑った。そうだよね、だって俺が大好きなふたりだもの。しあわせになってくれなきゃ困るよ!
大丈夫だ、トキヤ。お前の選択は間違ってない。みんな、そう思っている。
「来週、春歌の御祖母様に御挨拶に行くことになっています」
「へえ、いいね」
「そこで自分の気持を話してきたいと思います。それからのことは…そのあと考えることにします」
そう言ったトキヤの顔は晴れやかだった。これでこそ自分の友人でありライバルだと思う。この自信に満ちあふれた顔がレンは好きだった。
「良い土産話を期待しているよ」
からん、と音を立てて氷が溶ける。口に含んだ酒は妙に水っぽいのに、何よりも美味しい気がした。




//有海
∴ゆうきゅうのむこう