花見に行きましょうと言い出したのは春歌で、いいねと言ったのはレンだった。寮の庭には大きな桜の木が生えていて、それが丁度満開を迎えていた。窓から見えるその景色がとても綺麗なのだと柔らかい声で春歌は歌うように言う。お弁当つくりますね、リクエストはありますか?きみが作ってくれるものならなんでもいいよ。お約束のような会話をしたのが一週間前。今日はそれから一週間後、お花見の日だった。
「おっ!美味しそうだね…どれ、」
「まだ駄目です」
律儀にもタコの形に切られた赤いソーセージを摘もうとした細長い指を雪と同じ色をした指がはたく。
「まだ駄目です。わたしまだ準備し終えていないじゃないですか!」
「ハニーって時々変なところで拘るよね」
「変なところじゃないと思いますけど…あと、お酒は駄目ですからね。明日撮影なんでしょう?二日酔いなんて洒落になりません」
「…ふふっ」
「…なんで笑ってるんですか?」
「いや、愛されてるなあって思ってさ」
「…レンさんって時々とっても恥ずかしいですよね…」
「愛情表現です」
「…知ってます」
隣で春歌がてきぱきと昼食の準備をしている隣で、レンは桜の美しさにほう、と小さな溜息を吐いた。何時から此処で呼吸をしているのか分からない大きな大きな桜の木。たった一瞬の命を限界まで広げているその様は、人類には到底真似のできない姿である。美しいと思うから真似出来ないのか、真似が出来ないから美しいと思うのか、レンには分からないままであったけれど。いや、もしかしたら一生分からないままでいいのかもしれなかった。
ざあっと一陣の風が吹いて、巨木の靭やかな腕を揺らす。空に舞い散った薄桃色の花弁が鮮やかに青を飾る。それは息が詰まるほど、泣きたくなるほどの情景だった。


『お父さん!お父さん!見て!桜が満開だよ!』


「…え?」
「え?どうかしましたか?」
此方に向かって小さな皿(恐らく取り皿だろう)を差し出している春歌が、レンの微かな呟きに気づいて不思議そうに首を傾げた。どうかしたんですか?とその瞳が言っている。そんなのこっちが聞きたいよ、と言いかけ、しかしレンは瞼の裏に閉じ込めた記憶が花開くのを感じた。
あれは今からどれくらい前の話だったろう、と思う。
季節は今と同じ、穏やかな春のことだった。普段滅多に一緒に出掛けることのない父が、誰に言われたのかは分からないが家族を引き連れて花見に行こうと言い出した。表面上は乗り気ではない、というポーズを作り出していたレンではあったが、その実その言葉を告げられた日から指折り数えて花見の日を楽しみにしていた。何時もどうやったって自分を見てくれない、視界にすら入れてもらえない自分がもしかしたら、もしかしたら。名前を呼んで笑いかけてくれるかもしれない、と。それは傍から見ればあまりにもくだらない、どうしようもない願いだったのかもしれない。けれど、その願いはレンにとって最早祈りと同等だった。祈って祈ってひたすら祈って結局叶えられることはなかった、いのり。声なき声で懸命に叫んで、それでもレンは一度だってそれを口にはしないのだ。
願いは、祈りだ。祈りは、口に出したら叶わない。たとえそれがどんなものであっても。
結局、花見であるからといって父親の常が変わるわけもなく。勝手に期待していたレンはまた勝手に絶望を覚える。絶望はやがて怒りに変わり、怒りは、諦めに変わった。元を辿れば祈りだったそれを、諦めという言葉に変えただけだとついにレンは気づかなかったけれど。
「…どうか、しましたか」思考の海に漂っていたレンを無理矢理にでも引きずりだしたのは、春の陽射しの少女だった。まだあどけなさを残す風貌が、気遣わしげに目を細めている。そうっと伸ばされていた手を引っ張って頬に当てた。やわらかい、体温。自分よりも少し高めのその温度が、レンは一等好きだ。
「ちょっと昔のことを思い出してね」
「?昔のこと…?」
「ああ。昔、一度だけだけれど父親と花見に行ったことがあってね。その時のオレは、今よりも馬鹿でさ。振り向いてくれないかってずっと父親の気を引こう気を引こうって躍起になってたんだ。まあ、結局振り向いてもらえることはなかったんだけど。勝手に期待して勝手に絶望して…今思えばなんて忙しないことをしてたんだろう」
「……」
春歌は何も言わないまま、もう一方の掌で空いたレンの掌を撫でた。
「嬉しかったこととか、楽しかったこととか。しあわせだったこと、とか。多分探せばいくらでもあるんだろうけど、そんなこと全部忘れてる。全部全部忘れてかなしいことばっかり覚えてる。それって何だか、」
そこでレンは言葉を切って空を見上げる。泣きたくなると形容した情景はいまだ鮮やかにその場にとどまっている。
「…かなしいことばかり覚えていてしまうのは、きっとそちらのほうが強いからなんじゃないかなって思います」
「…え?」
手を撫でながら春歌は瞼を下ろして歌うように言った。かなしいって思ったことは。かなしいって感じたことは。心にとどまり続けます。どんな形状のものであれ、「かなしい」という感情は強いから。しあわせだったことは失ってから気付くってよく言うじゃないですか。それとおんなじ。まるで自分にも同じ経験があるような口ぶりだった。
「でもねえ、レンさん。知っていますか?かなしいってことを知っているってことはそれだけ楽しいと思ったこと、嬉しいって思ったこと。しあわせだなあって笑えたことをちゃあんと覚えているってことなんですよ。だって、その感情を知らなければかなしいなんてわからないですもんね。それがかなしいっていうんだって、わからないですもんね」
「…はるか」
「大丈夫ですよ、レンさん。あなたは忘れてなんかいませんから」
ざあっとまた風が吹いた。ぶわりと薄桃色が視界を覆い尽くす。だいじょうぶですよ、と柔らかい声がもう一度聞こえた。
――今もまるで夢のように脳裏をよぎる光景がある。
風邪を拗らせて寝込んでいた遠い冬のこと。高熱に魘されるレンを付きっ切りで看病してくれたのは父親ではなく執事のジョージだった。ジョージは寝込んでいるレンに対して優しかった。これ以上にないくらい優しくしてくれた。林檎だってウサギの形に切ってくれた。お粥だって作ってくれたし、一時間に一回氷枕を変えてくれた。魘され譫言を言うレンの手を一晩中握っていてくれた。それでも、こんなに優しくしてくれる人よりも冬のように冷たいひとをレンは待っていたのだ。絶対に来ることはないと分かっていながら、それでも。高熱に魘されながら、冬のように冷たい掌を。
だから、最初は夢だと思った。夢だと思って、現実かもしれないと期待して――期待してそんなことはないと打ち消した。真夜中、泣く子も黙る丑三つ時。冷たい冷たい掌が、レンの汗ばんだ額を撫でたなんて。
でも、たとえそれが夢であったとしてもレンは確かに幸福だった。幸福であったことを、今でもちゃあんと、おぼえている。
「…ほらね」
何も言わなくなってしまったレンに気づいて、春歌は楽しそうに笑った。鈴が鳴るような、本当にほんとうに楽しそうな笑い声だった。
「忘れるっていうことは、消してしまうってことじゃないんだね」
恐らく、消してしまうのではなく心の奥深くに仕舞い込んで見ないふりをしているだけなのだ。見ないふりをしていたのが段々見ない、というものに変わってやがて消してしまったと錯覚する。本当は消してなんかいないのに。ちゃんと覚えてる。見ないふりをしているだけで。
「…なんだろ、オレは何時も春歌に教わってばかりだな」
「…そんなことはないです。それを言うならわたしだって。レンさんに出会ってわたしの世界は色付いたの。無色透明の世界が鮮やかに輝いたの。前に言ったでしょう?わたしの音楽はすべて、あなたに命をもらうために生まれてくるって。レンさんが教わってばかりならわたしはもらってばっかり。…ね、「ばっかり」のわたしたちって、もしかしたらとってもお似合いなのかもしれないですね」
「もしかしなくても、だよ」
春の陽射しみたいにやわらかなからだをレンは思い切り抱きしめた。そうでもしないと何だか泣きそうだった。春歌の両腕が甘く抱きしめ返しながら歌うように言う。お弁当、食べましょうか。
ああ、と掠れた声で応えながら遠い今はもう永久に失われてしまった日々を瞼の裏に描く。愛しい少女と同じ名前の季節を想いながら。


//有海
∴優しいあなたが唱えたちちんぷいぷい
(title:リリギヨ)