月子は琥太郎が処方した薬が効いたのか、気持ち良さそうに眠っている。翼は寝台の近くに椅子を寄せて、小さな機械を弄っていた。時折機械が不吉な鳴き声をあげるが、顔色ひとつ変えない。月子が目を覚ましているときはあれだけ表情がくるくると変わるくせに、月子が眠ると途端にこれだ。それだけ翼の心の大部分を月子が占めているのだろう、そのことが手に取るように分かってしまったものだから思わず苦笑が漏れた。
月子がこの世界に春を齎すと言われている【清明】と名付けられた存在だったという事実は、少しだけしかし確実に琥太郎の心を揺らした。けれどもそれだけだった。季節とは人間の意思とは関係なく巡り行くもので、たったひとつを殺したところで春が訪れるとはどうしても思えなかったのである。寧ろ【清明】を殺して世界に春が訪れるというのなら、科学的根拠をはっきりと明示してもらいたいものである。それが出来ないのであれば気安くその様なことを口にしてはならない筈だ、少なくとも琥太郎はそう思っている。翼がどう思っているのかは分からなかったけれど、曲がりなりにも【清明】を連れて逃亡を図っているのだから、似たような考えを共有しているということはまず間違いないだろう。
「この世界は、」
不意に翼がそう呟いた。その声は悲しげでもあり、淋しげでもあり、そのどちらでもないような気もした。先を促すように琥太郎は暫くの間黙り続けている。
「俺はさ、本当は春とか冬とかそういうのどうでもいいんだ。月子さえ傍に居てくれればそれでよくて、月子が居てくれるならずっと冬のままでもいいんだ。月子が死なずに済むのなら何だってする。世界中全ての人間から疎まれたって構わないんだ」
「……だから春を呼ぶ道具を?」
「俺が道具を完成させられたら、絶対に月子は死ななくて済むだろ?世界の為とか、そういうんじゃないんだ。ただ、俺は、月子さえ、ずっとこの世界に居てくれればって。……これは間違ってる?」
「いいや」
何時もと同じ声量で呟いた筈の声は、音のないこの部屋に染み渡った。世界のためでも誰かのためでもなくて、ただたった一人のためだけに世界を敵に回す。忘れてしまった、あの頃確かに持っていた筈の、思わず目を細めてしまう程眩しい感情を、琥太郎は確かに羨ましいと感じた。その感情をいつの間にか無くしてしまったことが、取り返しのつかないことのようにすら感じられる。大人になるということは、色々な事柄に対象出来るようになるというのではなく、確かに持っていた大切な何かをひとつずつ失っていくということなのだと気付いた。今からそう遠くない過去の話だ。
「春は来るよ。お前が道具を完成させようとさせまいと、あいつが死なずに、必ず。季節とはそういうものだ。だからお前たちは笑っていればいいんじゃないか。お子様が無理をして笑うんじゃない」
「俺はお子様じゃない!……ぬはは、でも、そうだといいなあ。雪が止んで、冬が終わって、春がくる。そうやって世界が巡って、俺の隣には月子が居て。ぬーん、これ以上素敵な未来はないよな、な!」
「そうだな。まあ、お前があいつに愛想を尽かされなければ、の話じゃないか?」
「そ、そんなこと絶対ない!ぜーったいない!」
「どうだろうな」
「ぬぬぬ、何でそんなこと言うんだよー!医者のくせに意地悪なんだぞ!」
「医者だから、だよ」
琥太郎は何か懐かしそうに笑いながら、焦りながらも無邪気に笑う翼の様子を見ていた。
早く雪が止んで冬が終わり、春が訪れればいいと思う。この誰より優しい心を持った、光のような存在の二人が、もう世界に怯えなくてもいいように。もう、誰かに隠れてひっそりと泣かなくてもいいように。










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