ざあっと木々が揺れて色彩豊かな声で鳴いた。あまりに大きな声だったのでつられて振り返ってみれば、目に鮮やかな様々な緑が世界を覆っている姿が視界に飛び込んでくる。思い思いの方向に伸ばされた細い腕たちはしなやかで、大きな風さえも軽く受け流す。
緑の遥か頭上には陽の光を浴びてきらきらひかる蒼穹が広がっていた。宝石みたいな青空だ(宝石なんて数える程しか見たことがなかったけれど)、とその美しさに溜息をつきながら視線を漸く前に戻すと、あまりに大きな背中がそこにはある。その大きな背中を追い掛けるのが自分は好きだった、そんなことを思う。背中から離れないようにもう一歩足を進めると、夏の陽射しに刃向かうような爽やかな風が一陣、春歌の汗ばんだ首筋を駆け抜けていった。
(きれい)
お伽話に出てくるみたいな世界だと思った。幼い頃に憧れた、秘密を沢山内包したお伽話の森。奥深くではお姫様が眠り続けながら王子の助けを待ち、小川付近では妖精たちが踊り遊び、広場では動物たちが音楽会を開く。所詮は作り話であるしそんな森などどんな世界を探した所で存在しないことを分かってはいるけれど、そんな夢を思わず現実だと錯覚してしまう程度に此処は。
不意に前を歩いていた背中が立ち止まって振り返った。汗をかいてしまうから嫌だとやんわりと拒絶した掌が目の前に差し出されている。顔にはどこか拗ねたそれが浮かんでいて、ああ拗ねさせてしまったのかと春歌は苦笑した。年齢の割に時折幼い表情を見せるこの男が嫌いではない。どうかしましたか?こてん、と首を傾げてみると男はばつが悪そうに頬を掻きながら、けれども差し出した掌を引っ込めるようなことはしなかった。
「あんまりに春歌が遅いから、手を繋いであげようと思って。こんなに遅いんじゃ目的地に着くまでに日が暮れてしまうよ」
「…すいません。とても綺麗な光景だったから、思わず見蕩れてしまって」
「俺の目的地はこんなもんじゃない。覚悟しておくといいよ」
そう言って笑った男の笑顔が眩しくて春歌もつられて微笑む。
此処は男――神宮寺レンの所有している小さな森(というよりは山)である。どちらかと言えば"神宮寺レン"所有というわけではなく"神宮寺家"所有という方が正しいが、実際問題としてレンしか使用していないのだから最早レンの所有物と言えよう。そんな場所に何故レンはともかくとして春歌が足を踏み入れているのか。始まりは一週間前に遡る。


「春歌、今年の夏は何処か行きたいところはある?」
リビングで雑誌を読んでいたレンが唐突にそう問い掛ける。作曲の仕事も一段落ついて遅めの昼食を取っていた春歌は、唐突な問い掛けにうまい返答も思い付かずにただ目を白黒とさせるばかりだ。美味くフォークに刺さらなかったブロッコリーがゴロリと皿の上に落ちる。
「何処かって、あの…?」
「ああ、ほら俺と春歌のオフの日が一週間被ってるだろう?だから何処か行かないかと思ってね。此処は恐ろしく暑いしね…そういえばおチビちゃんはアメリカに行くって言ってたし、イッチーはイギリスって言ってたかな。春歌は何処がいい?きみの好きなところへ行こう」
再度ブロッコリーをフォークに突き刺して口に運びながら考える。要するにやたら整った笑顔を浮かべてこちらを見ているこの男は、一緒に何処か行こうと言っているのだ。
海外かあ、ごりごりとブロッコリーを咀嚼しながら思い付く限りの国を思い浮かべる。アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアにカナダ。オーストリアもいいかもしれない。けれど、どれだけの国を思い浮かべたところでその国にいる自分の姿を春歌は思い浮かべることができなかった。思い浮かべることが出来ないというのは、春歌の中では致命的な問題なのだ。初めてのそれこそ右も左も分からないような国へ行くとき、春歌はまずその国にいる自分を想像する。もしもこの段階で思い浮かべることが出来なければその国には行くのはやめておく。その方が失敗がないし、心の安寧が保たれる。何度やっても思い浮かべることが出来ない国もあるし、一度で思い浮かべられる国もある。最初は思い浮かべられなかったけれど月日が経つと思い浮かべることが出来るようになる国だってある。勿論これが仕事であったのなら一々思い浮かべて迷うようなことはしない。仕事は仕事だ。全てにおいて自身の意志が優先されるプライベートとは違う。しかし今回はプライベートだ。ならば思い切り迷えばいい、とは思うのだけれど。
「そうですねえ…」
歯切れが悪いのは微笑む男のせいだ、今度は人参のバターソテーをもそもそと咀嚼しながら考える。翔はアメリカへ、トキヤはイギリス。この流れできたらきっと微笑んでいる男は春歌が海外に行きたいと言い出すと思っているのだろう。プライベートは自分を最優先にしたいとは思っているが、男――レンを裏切るのは本意ではない。
「わたしは、」
「当ててみせようか」
「…は?」
レンは面白そうに人差し指をピンと立てて囁くように言った。あててみせようか、春歌が今何を思っているのか。
「…当てられるのなら、どうぞ」
「びっくりするといい。『特に海外には行きたくないなあ』って思ってるんじゃないかい?」
「…何でわかったんですか」
あまりに驚いてしまったから思わず手にしたフォークを床に落としそうになる。空中でフォークとダンスを踊った後、ジト目で(フォークを落としそうになったのは十中八九レンのせいだ)レンを見つめれば、彼は大きな掌でそっと頭を撫でてきた。心地よくて目を細める。
「わかるよ」
「え、」
「わかるよ、はるかのことは」
優しい、柔らかい声が聞こえた。春の陽射しのように穏やかな声で、レンは笑っていう。わかるよ、春歌のことは。お見通しだよ。
「…悔しいです。なんかそれだけ聞いたら、わたしはレンさんのことわかってないみたい」
「え?そうかい?そういうつもりじゃなかったんだけど…じゃなくてね。春歌がもし海外で行きたい所がないなら、連れていきたい場所があるんだけどいいかい?」
春歌から返ってくる答えなんか知ってるよ、そんな表情をしている男に悔しいなあと思いながらそれでもつられて頬がゆるむのが分かった。あまりにもその言葉が優しかったから、瞳が、声が甘かったから。理由なんてそれで十分だ。
――言葉は愛情によって演出されるかもしれない、けれども言葉によって愛情は演出されないと春歌は思っている。
「はい、連れて行ってください。レンさんが行きたい所。わたしを連れていきたいと思ってくれている所。全部きっと楽しめるに違いないんでしょう」
「勿論さ!最高に素敵な場所へ連れて行ってあげるよ」
その時見たレンの笑った顔を、それから長い間春歌は忘れられずにいる。


「春歌、こっち」
汗ばんだ掌を握り締めながらレンの後ろを歩く。大きな背中だと思う。とても大きな背中。
先程から何処へ行くのかと春歌が尋ねてもレンはもう少しだよ、と言葉を発するだけで行き先を教えてくれない。別にそれが不満なわけでも不安なわけでもないが、何処に向かっているのかくらい教えてくれたっていいと思う、と陽射しの眩しさに眼を細めた。
「はるか」ざあっと一際大きな風が吹いた。

「此処って…!」
「うん、綺麗だろう?」
目の前に広がるのは澄んだ水面を湛える小川だった。駆け寄ってみると余程綺麗な水なのだろう、小魚が泳いでいるのが確認できる。恐る恐る水面に触れて見れば熱を持った指先には心地良い冷たさが襲う。
「此処はね、俺のとっておきの場所なんだ。毎年夏休みは此処に一人で来て遊んでた。幸い此処には遊び道具が沢山あったし、それに水が綺麗だろう?泳ぐにはもってこいなんだ」
「…いつも一人で?」
「…うん。だからこの場所を知ってるのは俺と春歌だけだよ」
過去の思い出をなんでもない事のように言って、そこで漸くレンは春歌と同じ場所まで歩いてきた。じゃりっと靴が砂利を踏みしめる音と風の歌声、小川のせせらぎしか聞こえない。
夏休みの間中はずっと一人でこの場所で遊んでいたのだというのだろうか。それは淋しいことだと春歌は思う。誰かが一緒にいることが幸せだと言う訳でも、誰かと一緒に遊ばなければならないと言いたいわけでもなかったが、こんなに美しい場所にいつも一人でいたなんて。淋しかったのだろうか、悲しかったのだろうか。誰かと一緒にいたかったのだろうか。今となっては知る術も推し量る術も春歌は持っていない。持っていない上に理解することもできない。その、感じていたかもしれない淋しさも悲しさも。
――だったら。
これからは呆れるくらい傍にいよう。もういいよって言われるくらい傍にいよう。そうして今度は悲しい事も淋しいことも全部全部教えてもらおう。解ってあげたいなんて烏滸がましいことは言わないから、心の中を知っている人間でありたい。十年後も二十年後もその先もずっと一緒にいられる人間であるために。
「この小川にはね、神様が住んでるんだ」
「かみさま?」
パシャッと音がして、レンがその足をなんの躊躇いもなく水に浸した。透き通った水はレンの白い肌を一点の曇もなく映しだす。足の甲の上をひらりひらりと小魚が一匹飛ぶように泳いでいった。
「昔の俺はそう信じてた。だってこんなに美しい小川は他になかったからね。此処は神様が作ったに違いないってずっと思ってた。いや、今も思ってるかな。そう思えば一人で遊んでいても平気だった。神様がいたからね」
「…だいじょうぶです」
春歌もそうっと足を水に浸してみる。さらさらと流れていく感覚が楽しくて、一歩一歩前に進んでみた。冷たい、でも甘い温度。
教えて欲しい、あなたが感じていることのすべて。思っていること、願ったこと、祈ったこと。聴かせて欲しい、あなたの言葉で、あなたの声で。笑ったりしないから、どうか。
あなたを世界で一番理解している人間になんてなれない、だからせめてあなたを一番に知っている人間でいさせて。
「これからは、わたしがいます。一緒に遊びましょう?したいこと、してほしいこと、全部教えてください。今度は鬼ごっこだってかくれんぼだって出来ます。もう、一人で遊ばなくてもいいんですよ」
レンは驚いたように目を見開いて、それから数度瞬きをしてからゆっくりと笑顔を作った。何だか子供みたいな笑顔だった。
「…そうだね」
それ以上の言葉をレンは口にしなかった。けれども、その言葉の続きを春歌は知っている。
今度はもっと奥に行ってみようと春歌は立ち止まっていた足を動かして小川の中間辺りまで進んでみた。小川に入るまでは結構深いのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。ゴミひとつ浮かんでいない表面を軽く撫でながら遊んでいると、川の向こう岸から危ないよ!という声が聞こえた。
「戻っておいで、そっちは結構深いから」
「そうでもないですよ!ほら、レンさんもこっちに」
「いや、だから…」
「ほーらっ!」
困った顔をしているレンの腕を引っ張ると、気が緩んでいたのかその大きな体がぐらりと傾いて、次いでばしゃん!と大きな音がした。冷たい、と認識した頃には既に遅く二人の体は小川に沈んでいる。
「…びしょびしょだねえ」
「びしょびしょですねえ」
濡れて張り付いた前髪をそうっとレンが掻き上げてやると、春歌は眩しい物でも見るように目を細めた。春を閉じ込めた色の髪についた水滴が陽の光を浴びてきらきらひかっている。眩しい、夏の色だ、とレンは思う。彼女と出会ってから世界は何時だって夏みたいに明るい。独りきりだと思っていた世界は鮮やかな色彩を取り戻した。

ねえ、しってた?きみといればいつだって、せかいはきらきらひかるの。

「レンさん」
「ん?」
「これから。何をして遊びましょうか」
眼前の少女が楽しそうに笑ってそう口にした。何をして遊ぶ?この場所では聞くことの出来なかった言葉を、レンは今まさにこの瞬間聞いている。その声を、言葉を、声を発する主をとても穏やかな気持ちで聞いている。それはあの頃では決して感じることのなかった気持ちだった。
「…そうだね、取り敢えずは、」
軽く触れた唇は夏の日差しのように熱い。驚いたのだろう、さっきの笑顔は何処へやら、頬を真っ赤にしながら固まったままの少女を見てレンは笑う。柄にも無く幸せだなあなんて思いながら。
きらきらひかるせかいで、そこにあなたがいてわらっていてくれる。それだけでとてもしあわせだ。そう思えるのは多分相手があなただからだ。神様にも他の人にも教えてやらない。だってまだふたりでいたいんだ。だから、だから、

――みんなには、ひみつだよ。




//有海
∴きらきらひかる