シギサワカヤさんの『おわりのことば』パロディで、不倫沖千です。許容できる方のみこちらからどうぞ。





































初めは声が柔らかいな、と思って。
次に掌が大きいな、と思って。
最後に見えないところで努力するひとだな、と思って。
そこで終わればよかったのに、あんな顔をしてみせるから。

(どうかしたんですか、)

「どうしたの、何か考え事?」
行為後特有の甘やかな空気の中、彼の柔らかな声が鼓膜を侵す。男の人にしては細い指先がそうっと擽るように頬をなぞって首筋を辿る。こちらを見つめる若草色の瞳の柔らかさにわたしは意図せず視線を逸らした。
どちらが始めた関係だったろう、と思う。わたしもあなたも一生を誓い合った相手がいるのに、闇夜みたいな関係に溺れている。先も見えない後ろも見えない、そんな関係でどうやったら愛の言葉なんか囁けよう。あなたに愛を刻まれた体を引きずって、わたしは今日も家に戻り唯一の男の帰りを待つのだ。
「……だいきらい」
「しってるよ」
最初は柔らかい声だなと思った。わたしより幾つか年上だからなのかは分からないけれど、とても柔らかな声で話すひとだなと思っていた。直属の上司をからかう時の何時もより高いトーンの声も、会議中に見せる落ち着いた低い声も、楽しそうに笑うはしゃいだ声も全部、全部。耳に留まり続ける声だったから。
次に大きな掌だなと思った。大丈夫だよ、と頭を撫でる掌が友人の小さな掌とはあまりに違うから衝撃を受けたのを覚えている。掌比べしようか、重ねた掌が熱くなった理由をあの時はまだ知らなかった。
最後に見えないところで努力するひとだなと思った。なんでもそつなくこなしてしまうから天才なのだと思っていたけれど、実際そんなことはなかったのだ。皆が帰って真っ暗になった部屋で、真剣な顔をして画面に向かう姿を見なければずっと誤解したままだったかもしれない。
――それで終わればよかった。それで終わってくれれば、ちょっと気になる、でも尊敬できる上司で終わったのに。

終わった、のに。

「シャワー浴びてきます」
温もりの残るベッドから起き上がって、ぺたりとリノリウムの床に足をつける。冷え切った床の冷たさが火照る頭を冷やした。
「えー、もう?じゃあ僕も…」
「沖田さん」
「ん?」

今まで僕なりに頑張ってきたつもりだったんだよ、これでもね。
嘘でもいいから、何も出来ないと分かっていながら。『怖いものなんてないんだよ』と言ってあげたかった。
終わりにしておけばよかった。踏み込まなければよかった。そうすれば夜の海に溺れることもなかった。
けれども、どれも結局は言い訳だ。いくら終わりにしておけばよかったなんて言ったって始めてしまったものは始めてしまって、踏み込まなければよかったなんて言ったって踏み込んでしまったのは踏み込んでしまったのだ。言い訳しか出来ないわたしは今も夜の海に溺れて呼吸が出来ない。望んだのは自分だというのに、だ。
「シャワーを浴びたら、聞いてほしいことがあるので、」
始めたのはあなたが先だった。だったら、終わらせるのはわたしの役目だ。
何時もわたしの代わりに自分が傷付く道を選んで、それなのに何でもない顔をして笑うあなたのために。せめて、あなたが自分を責めないようにと。
――隠せてると思うこと自体が間違いだって、あなたは気付いていないから。
「…わかった。嬉しい話だといいんだけど」
「さあ、どうでしょう」
「こんな時くらい笑えばいいじゃない、千鶴」
こんな時だけ名前を呼ぶあなたはずるい。わたしが笑えない理由はあなたなのに。
「いやですよ」
ああほら、またあなたは自分についた傷を隠して笑うから、わたしはまた笑えなくなる。



濡れた髪を彼が撫でる。ちゃんと拭かなきゃ駄目じゃない、とタオルを手にした彼の掌はやっぱり大きい。
最初は柔らかい声が好きだなって思って。
次は大きな掌で触れられたらどうなるんだろうと思って。
最後に彼の努力を分かっているひとになりたいと思って。
今は、今は。
「沖田さん」
「うん?」
「わたし、北海道に引っ越すことになりました」
「……え」
俯いたままじゃ彼の顔が見られない。でも、それでいい。見たら泣いて縋ってしまいそうになる。柔らかい声を聞いて大きな掌に触れて、若草色の瞳で見つめられたら、こんな薄氷のように薄い決意はきっとあっけなく壊れてしまう。
「別に沖田さんとの関係が『彼』にばれたわけじゃありません。沖田さんの奥さんにばれたわけでも。ただ北海道には彼の御両親がいて、最近体調が思わしくないんだそうです。だから折角なら向こうに支社が出来るんだから引っ越そうって話になって。彼もわたしが家庭に入ることを望んでいますし、ちょうどいいかなって」
「……そう」
「はい。だから、今日で『おしまい』です」
今までどれだけあなたに見えない傷をつけたろう。あなたにつけた分だけ傷付きたいなんてことは言わないけれど、せめて最後はわたしに分けてほしい。あなたがそれでも笑うなら、わたしはずっと笑えないままでいい。
「…ちづる、」
「はい」
「嘘みたく聞こえるかもしれないけど、僕は割と本気できみが大事だよ。きみが傷付くのは見たくないし、悲しませたいとも、苦しい思いをさせたいとも思わない」
「……」
「僕はね、千鶴。すべてを捨ててきみと、って思ったことがなかったわけじゃないんだよ。でも、そんなことをしたらきみは自分を責めるだろう?こんなことを自分はさせてしまったんだって、僕を責めないで自分を責める。みんなを裏切った記憶で一生苦しむでしょう。それが分かっていたから出来なかった。どれだけ僕がきみのせいじゃないって言ったって聞かないにちがいないよ。きみは頑固だから」
何もかも嘘だらけで、自分ばかり犠牲にするひとで、それなのになんでもない顔をしてわらう、心底ばかなひとだと、思っている。
「…千鶴、やっぱりきみはすぐ泣く」
泣いてません、言葉は宙に消えた。
あなたとわたしの関係に名前を付けるならどんな名前がよかっただろう。愛でもなく恋でもなく、愛か恋によく似た何かだったわたしたちの関係は。何時だって答えは出ないままで、出ないままわたしたちは終わろうとしている。
いや、事実終わるのだ。
「あはは、不細工な顔」
柔らかい声が好きだな、と思って。大きな掌が好きだな、と思って。傍にいたいな、と思っていた。
「……あなたのそういうところ、ずっとだいきらいでした」
「…うん、しってる」




ほうっと息を吐くと周囲の空気が白く濁った。寒いね、とあなたが言って、わたしはなにも言えなかった。
「北海道の冬はこれよりも寒いらしいから、風邪引かないように」
「沖田さんも働きすぎで倒れないでくださいね」
「僕が一生懸命働いたことなんかあったかな」
「……………嘘ばっかり」
うまく聞こえなかったらしい沖田さんが首を傾げたけれど、わたしは気付かないふりをした。
あなたさえいなければ、あなたでさえなければこんなに苦しくなることはきっと、なかった。暗闇にも似た海に溺れて呼吸が出来なくなることも。それでも溺れていたかったのは他でもないわたしだ。溺れていたかったこの気持ちに名前をつけるとしたらどんな名前がいいだろう。
……その名前を、口にすることは。怖くて一生ないのだと、思ってしまうけれど。
「……総司さん」
久しぶりに名前を呼んだ。あなたは困った顔をして、それでも、笑った。
「今までありがとうございました。……さよなら」
「うん………さよなら」
背を向けた。もう二度と会うことはないと分かって、だからこそ振り返ることが出来なかった。
柔らかい声が好きだった。大きな掌が好きだった。若草色の瞳で見つめられるのが好きだった。全部全部、あなただから、好きだったのだ。

(ちづる)

名前を呼ばれたような気がして、ゆっくり振り返る。

やっぱり、あなたはいない。

――それに、すこしだけ安心した。


慣れた仕種で携帯の番号を押した。あなたの番号じゃない、唯一のひとの番号を。きっかりコール三回後に響いた声に、今度こそ本当にわたしは笑った。
「健ちゃん、晩御飯何がいい?」
あなたのことを思うと胸が軋んで、軋んだところから出来た傷がひりひりと痛む。それでも、あなたが傷付くことがないなら、苦しいことがないなら、もう二度と手の届かない遠い遠いところにいても。
「わかった、カレーライスの具買って帰るね」
誰にも理解されなくても、あなたを想ったというこの気持ちはきっとずっと消えないだろう。たとえ一生、胸の奥深く見えないところに付けられた傷が痛むのだとしても。







//有海
∴残花
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