素っ気ない態度を取ってしまっていたけれど、本当はとても嬉しかった。嘘だって言ってきみは笑うかな。 「ほら千鶴。挨拶なさい」 「初めまして。わたしが雪村千鶴、です」 「……南雲薫」 目の前の男の子はとても不機嫌そうに見えた。かといってわたし自身何か気の利いた言葉が掛けられるわけもなく、自己紹介(らしき)の言葉は宙ぶらりんになったまま誰にも受け取ってもらえない。 教えてもらった名前を胸の奥で反芻してみる。「なぐもかおる」、平仮名にしてみると字全体が丸みを帯びていて何だか可愛らしい(なんて本人に言ったら怒るの騒ぎじゃないと思う)。この六文字を持つ男の子こそがわたしのたった一人の肉親だった。 わたし、雪村千鶴には両親がいない。詳しいことはよく知らないけれど、わたしが物心付く前に交通事故か何かで亡くなってしまったらしい。実の両親がいないという事実は確かに心を痛ませたけれど、たとえ「本物の父親の代わり」だったとしても尊敬してやまない愛するひとがわたしにはいたから、悲しいとか苦しいとか淋しいとか兎に角そういった感情を持ったことはなかった。それでも時折、夕暮れの公園で。家族仲良く手を繋いでいる姿を見た時なんかは、微かな憧憬を抱いたものだ。本当に少しだけ。 「千鶴、お前に話さなきゃいけないことがあるんだ」 微かな憧憬を胸に抱いたまま成長したわたしがそう義父に切り出されたのはつい最近のことだ。(お前には生き別れの兄がいるんだよ)やけに改まった口調で告げられた事実は鉛の弾丸となってわたしの胸を貫く。大袈裟な表現かもしれないけれど、それと同等、いやもしかしたらそれ以上の衝撃だった。 「え、だって父様、一度だってそんなこと…」 「黙っててすまなかったね。お前が大きくなったら言おうと思っていたんだ…お前の両親が亡くなってすぐ、本当は"お前たち"を引き取ろうと思っていたんだがね、その頃の私といえば自分と"もう一人"をなんとか養う程度の金しか持っていなかった。どちらかしか引き取れない状態にあったんだよ。たった一人の肉親だ、叶うことなら一緒に育ててやりたかった。でも現実がそれすら許さない。そんな時だったよ。南雲さんがお前の兄さんを引き取りたいと言ってきたんだ」 「なぐも、さん?それがわたしの兄様の、」 「そうだよ。南雲さんはお前の遠い親戚に当たるんだけど、ずっと子宝に恵まれなくてね。出来ることなら兄さんを引き取らせて欲しいと」 「父様は、承諾したの?」 「…ああ。混乱を招くといけないから16歳まではお互い会わないようにすると決めてね…怒るかい?」 「ううん、怒るなんてない。嬉しいよ、本当に嬉しいの。だってわたしずっとずうっと一人きりだって思ってたから――家族がいないとか、そういうことじゃないよ。血の繋がった人間がいないっていう意味で――だから、わたしにもいるんだって、すごくすごく、安心した。吃驚したけど……嬉しい」 その時に感じ気持ちを、わたしは今も鮮明に思い出せる。たった一人の大切な大切な肉親。双子だったと聞いてからは毎日鏡に向かって話し掛けたりもした。初めまして、兄様。わたしは千鶴、あなたの妹。あなたと同じ世界に、いるんだよ。 ――ねえ、兄様。あなたはどんな表情で、どんな声で笑うのかな。早く会いたい、よ。 会いたい気持ちは日毎に募り、しかし中々機会は訪れなかった。何も出来ないわたしはただ待つことしか出来ない。漸く機会が訪れたのは、義父から話を聞いてから半年が経っていた。 二人の方が話しやすいだろうと、義父も南雲さんも席を外してしまった。相変わらず薫(と呼ぶことに決めた)は不機嫌そうに手元のブラックコーヒーを見詰めている。 何を話せばいいか分からなくてわたしはただ薫のことを見つめた。ずっと逢いたかった、焦がれてやまなかった相手が目の前にいるというのに、わたしの口は大切な言葉を吐き出してくれない。 伝えたいことがあった。何度でも。逢いたかったって、あなたがいてくれて嬉しかったって。話したいことがあった。幾らでも。学校生活はどうかって。将来の夢は何かって。 動け動けと念じれば念じるほど、口が閉ざされていくみたいだった。些細な切っ掛けがあれば話せる筈なのに、どうしてこんな、わたしは。 「…お前大変だよな」 「、え?」 わたしの葛藤を知ってか知らずか。最初に声を発したのは薫だった。闇夜より深いブラックコーヒーを見詰めながらぽつりと零す。その声は静かな水面に一粒落ちた、柔らかな水滴のようだった。ずっと聞きたかった声に思わず胸が震える。泣きそうだった。薫、あなたの声は、わたしよりちょっとだけ低いんだね。 「ど、どういう」 「だってそうだろ?いきなり双子の兄妹がいるとか言われてこんなこと連れて来られて。何話したらいいかも分からないし」 仏頂面のまま薫は呟く。吐息が水面を揺らして闇夜が震えた。 ともすれば酷いことを言われているのに、悲しくも辛くもならなかった。だって薫は「お前大変だよな」と言ったのだ。自分が大変だとは言わなかった。あくまでも"お前が"大変だな、と言ったのだ。揚げ足を取っているような言い方かもしれない、けれどもその言葉がわたしにとっては何よりも嬉しかった。きっと薫は知らないんだよ、多分これからもずっと。 「お前じゃないよ、千鶴だよ」 「は?」 「名前。わたしは千鶴だよ。お前じゃない。ね、薫」 「…………」 「大変じゃないよ。全然大変なんかじゃない。だってわたし嬉しいし、しあわせだもの。薫っていう兄妹がいるって聞いた時、本当に本当に嬉しかった。何時逢えるのかなってずうっと楽しみにしてたから、今日はとても楽しいよ。あのね、さっきからどうやって声を掛けようか迷ってたから、薫が先に声を掛けてくれて嬉しい。気付いたんだけど、薫ってわたしよりちょっとだけ声が低いんだね」 「……ばか」 目を細めてまるで眩しいものを見るみたいに薫を見た。仏頂面は成りを潜めている。強気の眉は下がって今にも泣き出しそうに見えた。 そうっと手を伸ばして触れてみれば見る見る歪む。その手から伝わる熱が柔らかくてわたしの視界も揺らいだ。 ねえほら薫、わたしたち泣きそうになる時の顔も似てるんだよ。 ――双子だもんねえ。 「かおる」 名前を呼ぶ。たったそれだけの行為なのに、一生分のしあわせを集めたみたいだった。かおる、かおる、かおる。あなたの名前は光を寄せ集めて塊にしたみたいだね。あなたの名前を呼ぶだけでこんなにしあわせになるの。ねえ、かおるも同じだといいなあ。 「ちづる、」 「…うん」 「……ちづる」 「うん。なあに、かおる」わたしはもう一度名前を呼んだ。泣き出しそうな瞳に向かって、揺らぐ視界のカーテン越しから、拍動のすべてを乗せて。そうすればほら、泣き出しそうな瞳がくしゃりと歪んで柔らかな笑顔を作るから、わたしは甘い甘い果物を食べた時みたいに嬉しくなる。 「…うん!」 薫の言葉を、わたしは愛おしく聞いている。薫も同じ気持ちであったらいいと、そう思いながら。 掌を掴んだ。わたしと同じ大きさの柔らかい掌。 伝えたいことがあった。何度でも。あなたの心に届くように。 「あのね、まだまだ話したいことが沢山あるの。ねえ、聞いてくれる?」 声を掛けると、薫はゆっくり瞬きをして、それからふわりと笑って頷いた。 //有海 ∴ゆかり巡り、あなたを見つめている (title.恋送り) いい双子の日、そしてKさんへ。 |