※番犬春歌と主人龍也のはなし。



あなたが欲するなら総てを司る右腕を。
あなたが欲するなら総てを守る左腕を。
あなたが欲するなら地を翔ける両足を。
あなたが欲するなら真実を映す両目を。
あなたが欲するなら真実を聞く両耳を。
あなたが欲するなら名を呼ぶこの声を。
総てが総てあなたのために。わたしの総てはあなたのために。
――だから。望んで、わたしを。欲して、総てを。願って、祈って、愛して、あなただけの幸福を。
その為の、あなたの為だけのわたしなのだから。


「龍也さん、其処を右です」
「ん」
緩やかな速度で過ぎ去っていく景色の音を聞きながら、視線はあくまでも地図に固定したまま春歌は龍也に告げた。主人が新調したという黒のドレスは彼女の純真さを押し隠しているようにさえ見えるが、その表現は強ち間違いではないのだろう。彼女は番犬。主人に害を成す普くものに対して牙を剥き一切の例外なく排除する、狂暴で暴力的な存在。大凡純真とは真逆の意味をその身に宿している。外見だけで判断するならただの天然少女なのにな、と笑ったのは他でもない主人だ。
「今日の御予定は会食だけですか?」
「多分な。あと何処ぞの社長が新作発表をするんだと。ま、お前の出番はないだろうよ」
「それは十全です」
「お前は気にせず飯でも食ってろ。彼処、飯だけは美味いからな…。そういえばトキヤも来るみてぇだし、音也もくっついて来てるんじゃねぇか?」
「本当ですか!?」
「トキヤから連絡がきてたからな。ったく、途端に嬉しそうにしやがって」
「だってだって龍也さん!音也くんの歌は本当に素敵なんです!龍也さんにも聴いて欲しいで…わわっ」
わしゃわしゃと龍也の大きい無骨な掌が乱暴に春歌の柔らかな髪を掻き混ぜるように撫でた。一見乱暴に見えるその動作の中にも確かに優しさが存在しているから、それだけで春歌は嬉しくなる。その掌を護るためなら何でも出来てしまう。だから龍也から形の伴わない優しさを向けられる度、ゆっくりとけれどもしっかりと胸の奥底で復唱するのだ。わたしは番犬。あなたにだけ忠実な、あなたのための犬。わたしをあの底の見えない夜から掬い出してくれた、たった一人、唯一のあなたへ。
「そうか、じゃあ機会があったら聞かせてくれ。伴奏は勿論お前、だろ?」
「はいっ!そのために沢山練習しました!これからも練習します!」
「おう、楽しみにしてるよ」
二人を乗せた車がゆっくりと右折する。見えてきたのは正しく豪邸と形容するに相応しい館だった。それが視界に入った瞬間、春歌の纏う空気が変わる。例えるなら柔らかな春の空気から張り詰めた冬の鋭さへ。素早く周囲に視線を巡らし対象に害を成すものが存在していやしないか確認する。視界に収まる何もかもを確認し終えると、今度は自ら窓を開け聴覚を使って妙な音が紛れていやしないかを確認。春歌にとって聴覚とは五感の中で最も優れ、剰え武器にすら成り得る代物だった。異常に発達した聴覚はどんな些細な音も聞き逃さない。それは聴覚には自信がある龍也のそれを遥かに凌ぎ、出逢った当初大いに驚いて――同時に申し訳なくなった。然るべき場所に行けば神童とさえ言われたかもしれない才能を摘むことしか出来ない自分。ピアノを弾くに最も適した雪のように白い指先は、鍵盤ではなく鉛の塊を握り、数多音の洪水を享受する筈の両耳は敵の忍びよらんとする足音を聞く。それを願ったのは春歌だったけれど、選択肢を与えたのは龍也だった。せめてと己の知識を掻き集め作曲の仕方を教え、ピアノを買い与えて音楽に触れさせてはいるけれど、免罪符にすらなりや
しない。
「龍也さん?」
「ん、どうかしたか」
「……いえ、何でも。あ、あっちみたいですよ、駐車場」
警備員の誘導に合わせて車を停める。龍也が降りる前に春歌は飛び跳ねるようにして車を降りて、運転席の扉を開けた。この日の為に龍也が見立てた黒いドレスは息を呑む程には似合っている。風がびゅうと吹いて裾を揺らす。
「お手をどうぞ」
「普通逆だろ…」
握り締めた掌をどう思ったのかは互いしか知らない。

◇◆◇


緩やかな音が満たす世界で先に声を賭けてきたのはトキヤだった。モデルよりもモデルらしい彼には黒が栄える。脇に控える無邪気な笑顔を浮かべる赤が、ななみ!とこれまた無邪気な声で龍也の番犬の名を呼んだ。
「お久しぶりです、龍也さん。お互い大変ですね」
「開口一番それかよ…まぁ、確かに面倒だが付き合いは無下に出来ねぇしな」
そうですね、と苦笑するトキヤの横でトキヤの番犬たる音也がとても、それはもう本当に楽しそうに春歌の手を掴んだ。久しぶり、七海!元気だった?俺はね、また一つ歌を覚えたよ。七海に聴いてほしいな。
「わあっ!音也くんの歌、聞きたいです!わたしも沢山沢山、ピアノ練習したから音也くんに聴いてほしい」
「勿論!…あっでもその前に腹拵えしなきゃ。あっちに美味しい料理あったよ。いこっ」
ぐいぐいと手を引っ張る音也に引きずられながら、それでもこちらを振り向いて是非を問う春歌に苦笑しながら行ってこいと手を振った。どうせ今日は何処ぞの社長が見栄を張る為だけに開いたパーティーだ。何かが起こる筈もない。うちの音也がすみません、律儀に謝ってくる後輩にいいっていいってと龍也は笑う。自分では与えられないものを与えることの出来る存在がいるのは貴重だ。
遠くで音也のソースが付いてしまったらしい鼻の頭を春歌が笑いながら拭き取っているのが見えた。




パーティーも終盤に近付き、そろそろ自分たちも帰ろうかとトキヤと話していた時だった。必ず視界の端に入れていた春歌が、不意に身体を強張らせて忙しなく周囲を見渡し始める。並んでいた音也が不思議そうに首を傾げ、何事かと春歌に問うが当の本人はその言葉が聞こえていないのか将又無視をしているのか、音也をその場に置き去りにして主人の元に駆け寄ってきた。緊張に彩られた顔を見て龍也の背筋も伸びる。
「どうかしたか」
「足音がおかしいです。変な風に足音を消している人がいます。あと、時計の秒針が時を刻む時みたいな音が増えて…火薬の、嫌な臭いが、します」
そこまで言われれば答えは一つだ。今思い返せば今日この場に集まっているのは所謂有力者たちばかりである。爆破でもして一網打尽にしてしまえという人間が居たっておかしくない。
春歌の言葉を聞いて、トキヤが鋭く音也の名を呼んだ。音也は頷いて周囲に散らばっていた番犬たちに素早く情報を漏らす。情報を耳にした番犬たちは真偽はどうであれ大慌てで主人の元へと駆けて行った。番犬にとって主人の安全が第一である。主人さえ大丈夫なら他はどうだって構わない、主人のためだけの自分なのだから。例に漏れず春歌もそうだ。主人たる龍也さえ無事なら他は構わない。そりゃあトキヤや音也、他の仲良くしている番犬たちが無事であればいいなとは思うし、無事でいてほしいとも思う。ただ主人とそれ以外どちらを取るのかと聞かれたら答えは最初から決まっている。
龍也さん、行きましょう。気付けば左手に鉛の塊を握り締めた春歌の小さく冷たい右の掌が急かすように龍也の手を握って引っ張っていた。瞳に浮かぶのは恐怖でも焦燥でもなく確かな覚悟である。この瞳を見る度、何も言えなくなる自分を自覚しながら龍也は頷いた。あなたさえ無事ならいいのと言われるのは、心地好くしかしそれ以上に――。
互いの手を離さないようにしながら車までの短くない距離を走る。その間も春歌は耳を澄まし周囲に目を光らせながら鉛の塊を強く握り締めて確認する。大丈夫、撃てる。絶対に外さない。
番犬を伴いながら横を駆け抜けていく初老の男性が助かりました、と頭を下げた。春歌はちらりと男性を一瞥しただけで何も言わないので、代わりに龍也がいえ、と目礼を返す。
「貴殿の番犬は素晴らしい。どのような躾をなさっておられるのか御教授願いたいですな」
「……躾と仰る貴方にお教え出来ることは何もねぇよ」
「おや、これはこれは。何、言葉の綾です。気にしないで戴きたい。――女でそこまで優秀な番犬だなんて、羨ましい限りだ」
下卑る声に露骨に眉を顰めたのは龍也だけではなかったらしい。後ろを走るトキヤが溜息を吐き、音也に至ってはおい、と声を荒げた。春歌だけが何も言わない。
「うちの番犬は世界一なんでな」
相手の返答を待たずに車に乗り込む。迎えの車が来ていないというトキヤたちがちゃんと乗り込むのを確認して龍也は車を発進させた。逃げるようにスピードを上げる車は見る見る館を小さい影にしていく。龍也さん、安全運転してくださいね。そこで漸く春歌が笑った。左手に握られた鉛の塊は離さないまま。
「御手柄だよ、春歌。お前には何時も助けてもらってばかりだな。よくやった」
「……はい、ありがとうございます」
その笑顔は、声は、それ以上に嬉しい言葉などないと言っているようだった。後部席に座る音也が控えめにありがとう、やっぱり七海は凄いやとどこか泣き出しそうな声で言った。
「わたしは別にすごくなんかないですよ」
「ううん、すごいよ。七海はすごい……番犬の鑑だね」
最後の言葉に含まれた意味を、龍也は確かに感じ取ってそれでも何も言わない。ハンドルを器用に扱いながらちらりと窓の外を眺めると、淡い月光が視界を揺らす。
「ありがとう……最高の褒め言葉だよ」
静かな声で春歌が笑った。










//有海
∴あなたの心臓になりたい