これのつづき。 寄せては引いていく波の音が背骨の一番奥で反響するような気がして、春歌はそっと目を閉じる。夏が旅立っていった夜空は底冷えする寒さを内包していた。 トキヤくん、始まりの名前を舌の上で転がしてみる。逢いたかったのか、逢いたくなかったのか。今となってはもう分からない。どちらにしたって、逃げ出したことには変わりがないのだから。 「…元気でしたか」 湯気を立てる紅茶のカップを口元に運びながらトキヤは言った。静かな、とても静かな声だった。さよならを告げたあの日と何ら変わらない。その優しさが、春歌には時々とても苦しい。今も昔も、多分未来も。何と答えればいいのか分からずに、閉じていた瞼をそうっと押し上げて窓の外に広がる寒空を見つめた。星も月も見えない。そういえば明日は雨らしい。 「…どうして此処がわかったんですか」 既視感を覚える台詞を呟く。鍵盤に触れた指先が軽やかな音を立てるけれど、春歌の世界は何の変化も起こさない。トキヤは遥か彼方を見透かすような顔をする。その瞳、髪の色。ああ、夜の海みたいね。 「嶺二さんに聞きました。いえ、嶺二さんが自発的に話したわけではないのです。ただ、あの人が酷く心配そうな顔をしていたので、どうしてそんな顔をしているのか、理由を問うてみました。そうしたら私が一番最初に主役を任せて戴いた映画のロケ地であった海辺の町で、貴女を見たと。その話を聞いた時、最後まで迷いました。会いに行こうかどうか。――いえ。迷ってなどいなかったのかもしれません。本当なら、貴女に会いに来る予定なんてなかった。でも、こう思いもしたんです。ここで貴女に会わなければ、きっともう二度と、本当にもう二度と会うことはないのだろうと、そんな気がして」 トキヤはそこで一度言葉を切った。喉の奥、陽炎のように揺らめく何かを必死に掴もうとしているみたいだった。そんな顔、してほしくないと思うのと同時にこんな表情をさせているのは自分なのだと堪らない気持ちになった。いいのに、わたしのことなんか、忘れてくれたっていいのに。口に出せないのは臆病故か。 「貴女は。一つのところに留まっていられない人だから」 そう言ってぐるりと部屋を見回す。何も置いていないのではない。敢えて何も置かないのだ。この土地に来てもう二年になる。そろそろ引っ越そうと思っていたところだった。 引越しが好きだというわけでも、身軽でいたいというわけでもない。それなのに、春歌は一つのところにずっと留まっていられない人間だった。まるで其処は自分の居場所ではないのだと体が訴えているかのように。世界が音もなく崩壊を始めたあの日からずっと付き纏う違和感。此処にいてはいけないのだという一種の強迫観念にも似たその思い。彼の傍にいても、彼が紡ぐ音楽に囲まれていても常に肌を刺したそれは、もしかしたら学生時代には感じなかったかもしれなかったものだった。そうしてその根本を、歌は知っている。 「…あのね、わたし」 春歌は一瞬泣き顔のような表情を作った。眉を寄せ、唇を震わせ、それでも決して泣くことはない。 「わたしね。自分が楽になりたいから、貴方の傍を離れたんですよ」 音が聞こえなくなった。聴覚を失ったわけではない、けれどもそれは春歌にとって間違いなく【音の喪失】だった。どんなに譜面を見つめても音楽が生まれない。どんなにメロディーを産み出そうとしても、欠片も出てこない。今まであんなに騒がしかった世界は途端に無音になった。どんな音を聞いても、どんな声を聞いても、どんな歌を聞いても。わたしの心は揺らがない。最初は自分の努力が足りないせいだと思った。今までは努力をすれば何とかなったから、今回だってそうに違いないと、根拠なんか何も無いのに見えない糸に必死に縋って縋って、そうして雁字搦めになった。どんなに頑張っても聞こえない。どんなに努力しても生み出せない。からっぽになった世界に残ったのは、からっぽになった心だけ。 「…どんなに頑張っても。どんなに努力しても。わたしの耳には、心には、もう音が届かないのに。そんなわたしの隣で楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに歌う貴方を見るのが楽しくて嬉しくて、同時に同じくらい、ううん、それ以上羨ましくて妬ましかった。ずるいって思ったんです。ずるいずるいトキヤくんはずるいよ、わたしにも頂戴ってそんなこと考えてばっかり。本当は、わかってたんです。トキヤくんは悪くない。誰も悪くなくて、仕方ないことなんだって。でも納得出来なかった。ずっとずうっと名前が付く前からわたしの世界は音楽と一緒だったから、失うことに耐えられなかった。喪失に耐えられない心のままトキヤくんの傍にいることは出来ません。誰より大切なひとを嫌いになんてなりたくなかったの――嘘。これも言い訳ですね。本当は、」 目を閉じた。 「音の世界にいるトキヤくんを見るのが苦しかったんです」 トキヤは、そうですか、とひどく静かな声でそういったきり何も言わない。窓の外から波の音が聞こえてくる。手にした小説のタイトルが蛍光灯の光を浴びて鈍く輝いた。『銀のライオン』。 ああ、この静寂だ、と春歌は思った。この静寂は常に二人の間にあったものだ。春歌が作曲をしている間、トキヤが歌詞を考えている間。二人でいるのに一人でいるような錯覚を覚えてしまうそれは、でも嫌ではなかった。寧ろ心地良いとさえ思っていた。だってこの静寂の向こうにはあなたがいる。手を伸ばしても届かないけれど、声は届く。呼べば振り返って笑ってくれる。そんな、距離をはらんだ静寂。懐かしい――嗚呼、なんて愛しい。 「…トキヤくん」 「…はい?」 「歌は好きですか?」 「ええ、とても」 その声は、言葉は。始まりの日と同等の鮮烈さを伴って世界を覆う。目を開くと、優しい表情が視界に入った。穏やかに、たおやかに笑うその顔が、わたしは好きだった。 「…そうですか」 不意にトキヤが立ち上がる。そうして春歌のいる場所――ピアノの隣までやってくる。そうっとピアノに触れた指先は白い。どうしたのだろう、少しだけ不安になって見上げると、眩しそうに目を細めた顔があった。形の良い唇が動く。春歌、貴方はテレビを持っていないんでしたね。私の新曲、聞いて戴けましたか?…いいえ、すみません。いえ、謝らなくていいんです。別に謝ることじゃない。ああ、それなら尚更いいかもしれません。 「…?いいって、何が、」 「先入観なしに私の新曲を曲を聴いてみてください。そしてその感想を、聞かせてください。アレンジをして欲しいわけでも、改善点を聞きたいわけでもありません。ただ一観客として私の曲を聞いて欲しいんです。作曲家でも…今はピアノの先生でしたか?ピアノの先生でもない、たった一人の七海春歌として。お願いできますか?」 「…ええ、それくらいでしたら喜んで」 トキヤの指がピアノを滑る。柔らかな音が世界を侵食していく。波の音が遠ざかって、彼の紡ぐ音しか聞こえなくなる。嗚呼なんて素敵な歌なんだろう。夜空に輝く星のような、世界を柔らかく照らす月のような、気づけば其処にあってそうっと背中を押してくれる、迷った時は手を引いてくれる。そんな曲。初めて出会った時からずっとずうっと焦がれてやまない音楽が其処にはあった。言葉は不便だ。素敵だ、それ以外にこの曲を表す術がない。でも、本当に本当に素敵な曲なの。涙が零れそうになるくらいに。 失ってから気付くとはよく言うけれど。わたしは失わずとも知っていた。――彼の歌が、声が、どれだけ素敵なのか。 そんな時だった。瞳の奥で、チカッと弱々しいけれど、確かな光が瞬いたような気がした。 (…!?) 有り得ない光景を、春歌は見ている。 「音楽はすき?」 そう問いかけてきたのは、他でもない【春歌】だった。学生時代、夢に心を踊らせて我武者羅に駆け抜けていた頃の【春歌】が其処にいる。柔らかく笑って、楽しくて仕方ないみたいに顔を綻ばせて笑っている。 「音楽は好き?」 「…はい。とても」 音楽が好きだ。たとえ失ってしまっても、もう二度と触れられなくても。生まれた時から、いいやもしかしたらそれよりも前から、春歌の世界は音楽で溢れていた。音楽こそが世界だった。嫌いになんてなれるわけがない。嫌いになれないから、諦められないから、自分は今此処にいる。好きだ、大好きだ、どうしようもなく音楽を愛している。捨てられない、捨てたくない、たとえ音楽がわたしを捨てても、わたしは。 「苦しいよ、この世界は。怖いよ、どうしようもなく。それでもあなたは、此処にいたい?」 「…いたいよ。此処に、いたいの。いさせて、ほしいの」 「…そう」 【春歌】はその答えを聞いてひどく安心したように見えた。けれどもそれも一瞬のことだったので真偽の程は分からない。 「なら、分けてあげるね。これはわたしのだから、全部はあげられない。ほんのちょっぴりしか、渡せない。でも、あなたがそれを望むなら本当に少しだけど分けてあげるね。――おかえり」 チカッと光が瞬く。世界を覆う。トキヤの声と誰かの声が混ざる。天上の音楽。涙がでるほどに美しい、それは本当に微かな光だった。それでもずっと焦がれていた光だった。 音が止んで、トキヤはゆっくりと背後に立っている春歌を振り返った。心なしか緊張しているような表情で。 「…いかがでし…春歌?」 感想を尋ねようとした言葉は最後まで紡がれることはなかった。 「…出だしはもう少しゆっくりでもいいと、思います。二番の三小節目は一オクターブ低くしたほうがもっと伸びると、」 「…春歌」 ボロボロと涙が溢れる。無音だった世界に薄く淡く色が付く。いつだってそうだ。わたしに世界を教えてくれるのは、トキヤくん、あなたなんだね。 「…おかえり、おかえりなさい。帰ってきたの、本当に少しだけ。」 ボロボロと涙を流す春歌の頬をそうっと怖がるように冷たい指が触れた。嶺二が寒いねと形容したその温度。春歌はこの温度が好きだった。己の体温と混じり合って温度を上げる、この体温が。 冷たい指が存在を確かめるように何度も何度も往復する。頬の温度が移ってじわじわ温かくなる指先を、どうしようもなく愛しいと思った。 「苦しかったよぅ…!トキヤくん…!」 今まで溜め込んでいた涙が次から次へと溢れてくる。音楽を失ってからずっと溜め込んできたものが堰を切って溢れ出したようだった。わんわんと声を上げて泣く春歌の頭をトキヤはずっと撫でている。 彼は世界を取り戻すために十五年掛かったのだという。対して春歌は二年だ。二年しか経ってないと言う人もいるかもしれない。でも、十五年だとか二年だとか期間の長さは関係ない。喪失は喪失だ。世界を失えば痛いし、苦しいのだ。 おかえりなさい、帰ってきてくれてありがとう。好きよ、大好き、愛している。微かな光でも、わたしはそれがとても、嬉しいんだ。 「…春歌はこの世界に帰ってきたいと思いますか」 「え?」 「この世界は優しくありません。一度逃げ出した相手にもう一度手を差し伸べてくれるような、そんな人間はいないと考えたほうがいい。貴女は一度逃げ出している。後ろ指を指されるかもしれない。一度逃げ出した奴が何を、と言われるかもしれない。それでも貴女は帰ってきたいですか。この世界に」 私がいる、この世界に。 穏やかな声だった。春歌は涙に濡れた目を閉じて声を出さずに笑う。 わたしの世界を包む光は今にも消えてしまいそうで、わたしの世界を色付ける色は目を凝らさなければ分からないような薄いものだ。あの頃とはこんなにも違う。恐らくあの頃には一生掛かっても還れないんだろう、音楽で溢れかえっていたあの世界には。でも、それでもいいと思う。 逃げたものと向き合うのはとても怖い。けれど、その怖いという気持ちがあるからわたしは前に進める。音楽は怖い、恋愛も怖い。怖いなら怖いなりに前に進もう。進み方はあなたが教えてくれたから。 「帰ります。帰って、もう一度零から始めます。何も無いなら零からやり直せばいいんです」 「私は待ちませんよ」 「当たり前です。待つなんて言ったら怒りますよ。――トキヤくんのこと、追いかけます。止まらないで走る貴方を追いかけて、追いついて、何時か追い抜かしてみせます」 追い抜かしてみせる、そう言ったのに。トキヤはひどく嬉しそうに笑う。本当に、嬉しそうに。 「もう一度認めさせます。わたしの世界を。そしてトキヤくんに言わせてみせます。「あなたの曲を歌わせてください」って」 「…ええ。楽しみにしています」 抱きしめてくるトキヤの体をぎゅうと抱きしめると、夜の香りが鼻を擽る。二年、自分はこの香りから遠ざかっていたのだ。離れていたことに後悔も反省もない、それでもこの腕に抱かれるのをずっと待っていたような気がした。 「もういいですか。私の歌が、声が、貴方に届くように歌っても?」 「…聞かせてください、もっともっと。離れていた分だけ、ううんそれ以上に。トキヤくんの歌を聞かせて」 背中をなぞると翼が生えているような背骨があった。なんて綺麗な背骨なんだろう、そう零すと楽しそうに笑う声が返ってくる。 おかえりも、ただいまもなかったけれど。もう一度同じ世界で出逢えて嬉しい。笑い声がそう言っていた。 「なら、まずはテレビを買いましょう。どんなに離れていても届くように」 窓の外には深い藍色の海が広がっている。夜の海はトキヤにとてもよく似ている、と春歌は思った。――もうすぐ、よるがあける。 //有海 ∴よあけのうみで |