これのつづき


閉じた瞼の裏に思い描いてみる。笑い声、その掌。あの頃のわたしは間違いなく幸福だった。幸福だったと胸を張って言える。――それでも。わたしは今、此処にいる。冷たい風が吹いて、ぶるりと体を震わせる。寒い、小さく零してわたしは夜明けの海に背を向けた。


わたしがこの海辺の町へ引っ越してきてもう二年になる。誰にも行き先は告げていない。知っているのは恐らく社長と、学生時代にお世話になった先生のみだ。薄情と言われればそれまでで、けれども後悔はしていない。後悔は愚か、反省も。わたしの世界が音楽を失ったあの日から、わたしは何も。
窓の外は何処までも続いているような澄んだ青空だった。時折聞こえる波の音だけが鼓膜を揺らす。ピアノに置いていた指をそうっと動かすと、柔らかな音が部屋を揺らした。しかし、その音もわたしの世界を色付かせることはない。本当に、失ってしまったのだと何度繰り返したか分からない言葉を胸の奥で吐き出した。
此処でわたしは今、子供たちにピアノを教えている。音を失ったわたしにピアノを教えることが出来るのか甚だ疑問だったのだが、案外不可能というわけでもなかったらしい。女一人細々と生活していく分には困らない程度には収入を得ることが出来た。時々、子供たちにどう表現したらよいのか分からない罪悪感を抱くこともあるが、幾らその罪悪感を抱えていたって結局どうにもならないのだ。罪悪感だけを抱えたまま生きていくことは不可能だ――恋だけをして生きていくことが出来ないのと同じように。愛情だけで生きていくことが出来ないのと同じように。
ざあっと鋭い冷たさを内包した風が髪を揺らす。脳裏に蘇るのは、あの日の記憶だ。
それは初めて名指しで主題歌を作曲してくれと頼まれた時のことだった。とある小説のドラマ化に当たって、わたしの【ファン】であるその小説の作者が主題歌は是非七海春歌にと直々に社長へと声を掛けてくれたらしい。その話を聞いた時、嬉しくて嬉しくて思わず泣いてしまったのを覚えている。
作者である男と初めて会ったのは、話を戴いてから二週間後のことだった。その日も冷たい風が吹いていた。事務所の一角、応接間で向かい合いながら小説の裏話や男性が小説へ込める想い、どのようなイメージで作曲して欲しいのかといった要望を聞く。出来る限り良い物を作りたいという気持ちは同じで、二人して熱くなって途中お茶を運んできた秘書の女に呆れたような顔をされてしまった。その顔を見て二人して笑ってしまったのだけれど。
「…いやはや、貴女の音楽へ掛ける想いは鬼気迫るものがありますね」
話し合いも一区切り付いた頃、牛乳も砂糖も入っていない漆黒の珈琲を啜りながら目の前の男はぽつりと呟いた。その言葉の意図が掴めずに思わず聞き返すと、男は困ったように頬を掻いた。誤解してほしくないので言いますが、悪い意味じゃないんですよ。
「七海さんはまるで、生き急ぐみたいに曲を紡ぐんですね」
「…え?」
「初めに言ったでしょう?わたし、貴女が紡ぐ曲のファンなんです。歌っている人間が誰彼に関係なく、貴女の紡ぐ曲が好きでね。七海さんが作曲していると聞けばそのゲーム自体をプレイしたことがなくともサウンドトラックを買ったりして。気付けば我が家のCD類の大半は貴女が関わったもので埋まっている」
「それは、とても有り難いことです。作曲家としてこれほど嬉しいことはありません。ですが、」
生き急ぐとは、どういうことなんですか。
「七海さん、過去五年間で自分が一体どれだけの曲を紡いできたのか覚えていらっしゃらないんですか」
探るように此方を窺う瞳を受けて、わたしは暫くの間考えこむ。まだ駆け出しの頃はただ依頼が貰えることが嬉しくて、多少無理をしてでも依頼を受けていたような気がする。かといってどの曲も手抜きをした覚えなどなく、何時だってその時生み出せる最高のものを生み出してきたはずだ。それは揺らがない、揺らぎようのない事実として胸の中にあった。他人の目から見れば確かにハードペースに映る頻度で仕事をしているのかもしれないという自覚はある、けれどもそのせいで曲の質を落としたことなど一回もない。生き急ぐなんてそんなこと、絶対に。
黙ったままのわたしに何を感じたのかは知らないが、男は小さく息を吐いた。
「いつかきっと七海さんの世界は破綻する。そう、遠くない未来に」
「…何を、」
「わたしがそうだったから」
男は微笑んだ。酷く悲しい笑みだった。
「その対象がなんであれ、世界を生み出すというのは酷く労力がいることなんです。わたしは文字を紡いで視覚に訴え、貴女は音楽を紡いで聴覚に訴える。声高にわたしが紡いだ、わたしだけの世界を見てくれと叫ぶ。それ自体はなんでもないんです。ただ、その世界が何も無いところから生み出した、0から生み出したものだということに問題がある。元々、世界とはそんなに簡単に生み出せるものではないとわたしは思っています。生み出すにはとんでもない力を必要とする。幾ら時間を掛けたか、は関係有りません。掛けた時間が多かろうが少なかろうが、生み出すということは酷く力のいることだ。わたしはそれに気付かなかった。だからオーバーヒートしたんです。気付いたらわたしの世界から文字は消えていた。あんなに文字で、物語で溢れていた世界は色を失くし、言葉を失った。紡げなくなったんです、もう何も」
「でも、貴方は今こうやって物語を紡いでいるじゃないですか。誰からも愛されるような、そんな素敵な物語を」
「…この状態に戻るまで、十五年掛かりました。それでもまだ、物語で溢れかえっていたあの頃には還れない。わたしの世界は相変わらず物語を失ったままだ」
男の言葉は静かだった。例えるなら梅雨の時期、音もなく降りしきる細かい雨のような。かちゃり、コップが鳴く音を聞いて、漸く己の指先が微かに震えていることに気付く。
「恐らく。七海さん、貴女は気付いていない。その心に掛かる負荷を。これは貴女の人生で貴女が選び取った世界だ、貴女がした選択ならばわたしは応援します。それでも、覚えていてください。そのままで生きていたらきっと貴女の世界は破綻する。――貴女の世界が破綻しないことを、祈っています」
「…そんなこと、貴方に言われたく、ない、です」
零した言葉はみっともなく掠れていた。男はわたしをちらりと見て、それからゆっくり視線を窓の外に遣った。冷たそうな風が木々の間を摺り抜けて行く。もしかしたらわたしは。貴女がわたしに似ているから、貴女が好きなのかもしれませんね。

思えばあの日から、わたしの世界は音もなく崩壊を始めていたのだ。


◆◇◆


「…い、せんせい!」
柔らかい声でわたしは漸く我に返る。はっと視線を声の主へ向けると、まだあどけなさを残した少女が袖を握りしめていた。どうやら眠ってしまっていたらしい。今日はレッスンの日だったか、眠気の残る頭を振って靄を追い払うと、少女に視線を固定する。気付かなくてごめんね、今日はレッスンの日だったかな。しかし、少女は違う違うと首を振る。レッスンではないなら一体なんだというのだろう。不思議に思いつつ言葉の続きを待っていると、少女はどこか楽しそうにお客様だよせんせい!と笑った。
「…お客様?」
「そう!帽子のね、おもしろいひと!」
「…おもしろいひと?」
益々脈絡の無い言葉に首を捻っていると、扉が僅かに開いて――ピアノ教室の扉は何時でも開くようになっている。受講生たちがレッスンのない日も遊びに来たりするからだ――、その隙間から遠い記憶と同じ形をした顔が見えた。困ったとき眉尻を下げて笑う笑い方もあの日のまま。
「…寿さん?」
「久しぶりだね、春歌ちゃん。…あのさ、入ってもいい?あんまり外にいると色々危なくて。駄目なら大人しく帰るよ」
「…駄目なわけ、ないじゃないですか。どうぞお上がりください…どうして此処がわかったんですか?」
「…収録があってね。海辺を歩いていたら何処かで聞いたことがあるようなピアノの音がしてさ。誰が弾いてるんだろうって気になって調べてみたんだ。そうしたらこのピアノ教室と先生の名前が分かったってわけ。七海春歌ちゃん、きみの名前がね」

◆◇◆


勧められた椅子に腰を下ろした嶺二は興味深そうにぐるりと部屋を見渡した。ピアノと楽譜が収納された本棚以外何もない殺風景な部屋。窓の外からは寄せては返す波の音が聞こえてくる。こんな淋しい世界にきみはいるのか、零れそうになった言葉を慌てて飲み込む。淋しいなんて、そんな主観を押し付けるのは間違いだ。嶺二が淋しいと形容する世界で彼女は確かに呼吸しているのだから。嶺二の葛藤を知ってか知らずか、紅茶のポットとカップを机の上に置いた春歌はピアノの傍の椅子に腰を下ろした。その瞳に何が映っているのか嶺二には分からない。
「…此処にいたんだね。この世界にきみはいたんだ。音也が心配していたよ、七海は何処に居るんだろうって、ずっと言ってる」
春歌は微かに笑った。トキヤくんは、とは言わなかった。
「此処にはテレビがないんだね」
「必要だと、思わなかったので」
「…そう。音也が淋しがるな」
春歌は目を閉じた。トキヤくんは、とは言わなかった。
「…トキヤは元気だよ」
きみがいなくても。
春歌は何も言わなかった。
「この間、トキヤが出したCDがオリコンで二位を取ったよ。一位じゃなかったって悔しがってたけど、俺は十位に入ったこともないんだからずるいよなあ」
「…わたしは、寿さんの声、好きですよ」
「…ねえ、春歌ちゃん」
呼びかけに、漸く春歌は瞼を押し上げて嶺二を見た。澄んだ柔らかい瞳だった。それでも、その瞳が嶺二にはとても悲しかった。世界を失った子の瞳だ、と思った。
「トキヤくんのことなら」
歌うように春歌は言葉を紡ぐ。それは何時だったか、初めて彼女が生み出した世界を耳にした時と同じ音と鮮烈さを伴っている。あまりにも眩しい、眩暈を起こすほどのそれを、けれどもとても淋しいものとして嶺二は認識した。
「わたし、何も心配していません。あのひとはわたしがいなくても輝けるひとです。…わたしがトキヤくんがいなくたって生きていける人間であるのと同じように」
「…それは、そうだろうね」
「勘違いして欲しくないのは。わたしは自分の意志で此処に居るということです。其処に誰の介入もありません。わたしが此処に居たいと願ったから、此処に居ます。誰のせいでもありません。此処に居たいから、此処にいるんです」
「…うん、だろうね。きみは意志の強い子だ。初めて会った日から知ってたよ」
でしょう?そう言って春歌はピアノの鍵盤に指を滑らせた。奏でられたのは彼と彼女のデビュー曲。
嶺二はトキヤの曲の中で一番その曲が好きだ。贔屓など一切無く寿嶺二という一人の人間としてその歌が好きだった。トキヤと春歌の二人が紡ぐ世界は、今まで見たことのない色で彩られていて、それを音楽を通して眺めるのが好きだった。だから出来ることならずっと二人でいて欲しいとすら、本当に思っていたのだ。その願いが叶うことは遂になかったのだけれど。
「…やっぱり駄目です。もう聞こえない」
「え?」
「寿さん、音楽は怖いですね」
こわい、ほんとうに。譫言のように春歌は言って笑った。
「俺はさ、どうして春歌ちゃんが此処に来たのか、その意味も理由も知らないよ。でも分からないなりに、きみが自分はトキヤの傍に相応しくないとかそんな馬鹿げたことを考えて此処に来たんじゃないって思ってるんだけど」
「…そんなこと一度だって思ってません。思うこと自体がトキヤくんに失礼です。彼の隣にいることは、それだけで幸福でした。今でも、そう思っています」
「…そっか。なら、いいんだ」
波の音が遠くから聞こえてくる。此処は寒いね、独り言のように呟くと、この冷たさがわたしは好きですよ、という声が返ってきた。トキヤくんの手も何時も冷たかった。その冷たさがわたしは嫌いじゃありませんでした。わたしの体温で徐々に温かくなる掌が好きだったのかもしれません。まるで、彼の一部になれたような気がして。
「…ねえ、知ってる?トキヤはね、ちゃんとピアノソロ曲も歌ってるよ」
うまく歌えてるでしょうか、私は。時折そんな言葉を口にすることは、あったけれど。
びゅうと冷たい風が吹いて、ポットの蓋がかちゃりと小さな音を立てた。春歌は立ち上がってそうっと窓を閉める。青空と海が融け合って一つになったみたいだと、嶺二は思った。
嗚呼、此処はとても寒い。
「そうですか」
春歌は眩しそうに目を細めて窓の外を見ている。口から零れ落ちたのは、憧憬を含ませた声だった。

◆◇◆


真夜中。とんとん、と扉を叩く音がした。なかなか眠りにつけなかったわたしは視線を落としていた本からそっと顔を上げて扉を見つめる。『銀のライオン』、それがこの小説のタイトルだった。何時か世界が破綻するよと忠告した彼が、三年ぶりに出版した。
誰だろう、こんな時間に尋ねてくる人間をわたしは知らない。泥棒かとも思ったが、まさかこんな律儀に扉をノックするはずもない、と浮かび上がった考えを否定するように頭を振る。今日は来客が多い。それが望んだものであろうとなかろうと。
「…そんなに此処は寒いですか、寿さん」
なるべく暖かくするんだよ、そう言って部屋を出ていった男の後ろ姿を思い出す。わたしはこの寒さが好きだ。――まるで、彼みたいだったから。
そう思った瞬間、予想もしなかった声が扉の向こうから聞こえてきた。

わたしの世界を構築する、始まりの、声が。

「春歌、此処に居るんでしょう?起きていますか。貴女に、会いに来ました」






//有海
∴ぎんのらいおん