がらりと開けた窓から、びゅうと冷たい風が吹いてきてわたしは思わず首を竦めた。つい最近まであんなに暑かったのに、気づけば世界は冬を迎えようとしている。寒いなあと思いながら空を見上げると、張り詰めた美しさが其処にあった。きらきらと輝く星は誰かの瞳によく似ている。子供のように目を輝かせて、何よりも楽しいって顔をしてうたをうたうひと。其の人の名前を私は知っていて、知っているからこそ口には出さない。其の人の名前はわたしの宝物だ。胸の奥にずっとずうっと仕舞っておきたい、綺麗な宝物。

しのみやなつき。それがわたしの宝物のなまえだった。


今那月くんはどんな夢を見ているんだろうと、そんなことを考えてみる。寄り添って眠っていた筈のわたしはこんな所にいるけれど。どんな夢を見ているのだろう、楽しい夢だといいなあ、彼が見ているかもしれない夢を頭の中に思い描いたところで、わたしは本当に彼のことが好きなのだと、何だか少しだけ泣きそうな気持ちになった。好きではなかったら寝ている人間の夢の内容なんか気にしないのだから。
わたしの世界は那月くんだ。自信を持って胸を張ってそう言える。そう言える自分が誇らしかった。
『けっこんしてくれませんか』
思わず見返すとどこか神妙に、窺うように恐る恐るこちらを覗き込んできた瞳をわたしはまだ覚えている。いや、忘れられるはずがなかった。何の脈絡も、ムードもなく、今日のの晩御飯は何でしょう、そんな何時通りの口調とは裏腹に緊張感を湛えた瞳。
嬉しかった。驚いた、とか何故今いきなりそんなことを、とか言いたいことは沢山あった。もっとムードがあってもとか、まだ心の準備が、とか口に出して伝えたい事は沢山あった。けれども、彼のその言葉の前ではどれひとつとっても無意味で無価値で空虚なものだった。たった一つの言葉以外、何も必要ない、そんな世界にいるみたいに。だからわたしは彼の目を見て、ゆっくり瞬きをして、それから普段通り、今日の晩御飯はお魚ですよって言うみたいに何時ものように答える。彼が望んでいる答えを、其れ以上にわたしが望みたい答えを。
『よろこんで』
わたしは望んでいたいのだ。隣に彼がいる未来を。名前を呼べばくるりと振り返って、僅かに首を傾げて嬉しそうに目を細めて笑ってくれる、手を差し出せば大きな掌が包みこんでくれる、「はるか」って綺麗で綺麗で夏の青空を切り取ったみたいな眩しさを孕んだ声で名前を呼んでくれる、そんな彼の隣にわたしがいる未来を。
びゅうと冷たい風が吹いて、ぶるりと大きくひとつ身震いをする。ああさむい、此処はとても寒いのだ。――わたしは今那月くんの故郷に来ている。
初めて彼の両親に会う。どんな人なのだろう、どんな顔をして会えばいいんだろう、北海道行きが決まった二週間前からずうっと考えている。お土産は何がいいかな、どんな洋服を着ていこうか、一番最初になんて言おうか。頭の中をぐるぐる回る言葉は沢山あって、彼の両親に直接会って伝えたいと考えている事も沢山ある。緊張もしているし心配も、まあ、少しは、している。でも何だか根拠もないのに大丈夫だと思ってしまう。多分其れは、隣で笑ってくれる存在がいるから。
本当は先程から気付いていた気配にまだ気付かないふりをする。そうすればわたしの細い腕なんかよりも数倍逞しい腕がぎゅうっと抱きしめてくれるのだ。
「なつきくん」
「もう、バルコニーに出るならそう言ってください。探しちゃったじゃないですかぁ」
「ふふふ、ごめんなさい」
首筋を擽る柔らかい髪を優しく撫でながら空を見上げる。遮るものなど何一つない、満天の星が輝く夜空。彼の髪と同じ色をしたまん丸の月がぽつんと浮かんでいた。
月で待ってて、と那月くんは歌う。その歌詞は裏を返せば彼が一人で月へ行けるということを意味している。当たり前だ、彼はもうそれだけの翼を手に入れた。大きな大きな純白の、恐らくこれからも穢れなど知ることのないだろう一対の翼を。そうして、わたしは多分その翼を持てない。持てたとしてもごく小さな翼で、羽ばたくような力なんて持たない物。那月くんに相応しい人は自分以外に沢山居ると思ったことはあるし、彼の進む道にわたしは邪魔なんじゃないかと思ったこともある。その度に彼は決まって言うのだ。
――僕はね、多分。月も、もう一人で行けるんです。誰かが一緒じゃなきゃ歩けなかったあの頃とは違う。眼鏡を外して眠ることも出来るし、ヴィオラを弾くことだってもう躊躇わない。何でも一人で出来てしまう。…でもね。知っていましたか?僕をこうしたのは春ちゃん、あなたなんです。あなたが居たから僕の世界は変わった。傷つくのはやっぱり怖いけど、それすら受け入れて前に向かって進んで行こうって思えるのは、あなたが。一人でも生きて行けるかもしれない。けれど、もしも一緒に生きていく人を選ぶことが出来るなら、僕は迷わずあなたを選ぶ。ねえ、一緒に生きていくってそういうことでしょう?一人でどこまでも進んでいけるなら、二人で歩いていくことだって出来るかもしれない。その相手になってくれますか。
ずるい、と思った。卑怯だ、そんな言い方をするなんて。ずるい、そう思うと同時にわたしはなんて幸せなんだろう、と思う。このひとをずっとずうっと、わたしの力が続く限り大事にしよう。本当に大切に大切にしたい人がいて、その人が笑っていてくれたら。人はそれだけで幸せになれるのだ。
「…怖いですか」
「何がですか?」
「僕の両親に会うのが、です」
「どうして?」
「どうしてって、それは、」
「…緊張は、そりゃあします。うまく喋れるかなって心配になったりしてます。でもね、怖いとかそんなこと、思ってません。那月くんがいるし、それに」
きっと素敵な人なのだ。だって、那月くんを育ててくれたひとなんだもの。
言わなかった言葉に、それでも確かに彼は気づいたのだろう。隣にいるひとが安らかに、健やかに微笑む気配がした。抱きしめる腕の力が強まり、二人してくすくすと小さな笑い声をあげる。空には沢山の星、隣にはいとおしいひと。これ以上のしあわせなんかきっとない。
不意に那月くんがその大きな掌を空に翳した。掌越しに輝く星をぼんやりと見つめていると、少し不服そうな声が降ってくる。もっとこの手が大きかったら。あの星をとってきてあげるのに。
あまりにも悔しそうだったから、わたしは思わず声を上げて笑ってしまう。くるり、と体を反転させて訝し気に眉をひそめる翡翠色の瞳を見つめた。掌をとって頬に添えて。何時もより少しだけ体温が低いのはこの気温のせいなのだろうか。
わたしは星なんてそんなもの、いらないのだ。星に手の届く掌なんていらない。わたしの小さな手を握ってくれる、この【那月くんの】掌さえあればいい。伝わるかな、伝わらないかもしれない、伝わらなくていい。ただ、わたしは【あなたの】掌がいいんですよ、那月くん。
「わたしはこの手が好きですよ。星に手の届かない、那月くんの手が」
「…春ちゃん」
「だいじょうぶ、ねえ、だいじょうぶだよ」
わたしがいいよって笑ったこのひとと、いとおしくてたまらないって顔をしてわたしを見るこのひとと、わたしは家族になる。何時か二人が三人になって、四人になるかもしれない。その第一歩をわたしたちは踏み出す。怖いことも苦しいこともつらいこともあるかもしれない。でも、大丈夫だ。星には届かないけれどわたしの小さな掌を包んでくれるこの温かい掌が傍にあるから。隣に並んで、柔らかく笑って。名前を呼んでくれる人がいるから。

ねえ、那月くん。かぞくになろうね。あなたとわたし、ふたりで。


幸福な気持ちでそう言うと、眼前のいとしいひとが柔らかく笑って頷くのが見えた。




//有海
∴眠れぬ夜など越えて
(title:約30の嘘)