一ノ瀬さんの背骨は綺麗ですね、と暗闇の中で春歌はうっとりするように呟いた。雪にも似た白さを内包する指先が音もなく静かに背骨が存在するであろう場所を撫でる。擽ったいですよ、と笑みを含んだ声で言うと彼女は大して反省しているとも思えない声でごめんなさい、と言って指先を離した。
窓に掛けられたカーテンの隙間から覗く月明かりが眩しい。遠くから自動車独特の音がする。夏の茹だる暑さはとうに消え失せて滲むような寒さが世界を侵食し始めていた。例年よりも遥かに早い冬が訪れ。
トキヤが春歌の待つ家(といっても二人は結婚しているわけではないし、そもそも未成年だった)に帰ってきたのは今から数えて丁度三日前のことだった。ひょんなことから今冬公開の映画の主役に大抜擢されたのだ。監督も数々の受賞経験がある言わば“売れっ子”というやつで、そんな監督直々に主役の名指しを受けたのは異例中の異例と言うより他ならなかった。十八という年齢とは裏腹に妙に大人びた瞳が気に入ったのだと監督は言って笑った。それを純粋に嬉しいと思う。そうして、この映画が成功すればいいとも殆ど無意識に思った。打算も下心もなく純粋に。自分を選んだこの人を失望させたくないと。
――それと同時に。トキヤは、自分はもう一人でも生きていけると思ってしまった。【思ってしまった】から、慌ててその考えを否定するかのように頭を振る。自分が一人で生きていける筈がない。隣に彼女がいなければ自分は生きていけない筈で、そうあるべきだ。そのようなことを考えること自体が間違いだ、そうに決まっている。そうでなければ、
――そうでなければ?
「一ノ瀬さん」
「……っはい」
動揺した声に気付いているのかいないのか、春歌は楽しそうにくすくすと笑った。ぺたりと背中に生温い温度が押し付けられたのが分かる。位置的に恐らく彼女の額だろう。雪のように白いくせに雪には似つかわしくない温度。
どうかしましたか、闇夜で囁いた声は思いの外掠れている。それが先程の行為を思い出させてやけに気恥ずかしかった。
「わたし、一ノ瀬さんの考えていること、分かっちゃうんですよ」
「…え?」
「ううん、何でもないです」
何だか春歌はとても楽しそうだった。その理由が分からなかったから、トキヤは不思議そうに僅かに首を傾げた。
楽しかったですか?と春歌は聞いた。撮影、楽しかったですか。どう答えたらいいのか一瞬の逡巡の後、囁く様な声でトキヤは返事を返す。ええ、とても。
撮影は楽しかった。海のよく見える浜辺で撮影は進んだ。ザザアンと寄せては引く波の音が耳に心地良いその場所で。今までの自分では出来なかったことが出来るようになったような気さえして、トキヤは微笑む。笑った感触が伝わったのか、背中越しに春歌がまた楽しそうにくすくすと笑う。
今回トキヤが主演することになった映画は【叶った初恋】をコンセプトとしていた。無意識に相手に誰を思い浮かべていたのか口に出して言えるほど素直ではなかったが、それでも思い浮かべるのはたった一人だった。はつこい、言葉にしてしまえば陳腐なものをトキヤはずっとずうっと持っている。
撮影中、淋しいと思ったことはなかった。その事実がトキヤの胸を苦しくさせる。淋しいと思ったことはなかったが、会いたいとは思っていた。会いたいと確かに思っていたし、声が聞きたい、名前を呼んで名前を呼ばれたいと思っていた。相手の女性に対して心情を吐露する演技をする度、どうしようもなくただ会いたくなるのだった。だから、彼女がいる場所から遙か離れた海辺の町で、携帯電話は心臓になった。何があるか分からなかったから電話は出来なかったが、メールの受信音が鳴る度に嬉しかった。メールを読んでいる時も返事を考えている時も。同じようにメールが返ってくるのを待つ時間は苦痛ではなかったと言ったら笑われるだろうか。でも本当に苦痛ではなかったのだ。春歌からメールが返ってこない時間、春歌は何をしているのだろうかと想像を巡らすのが楽しかった。
そこに在るのが恋なのか愛なのかもう分からない。ただ、春歌のことを考えると楽しくて幸せで、自分のことを差し置いても幸せになって欲しいとすら思える。究極的には春歌の隣に自分がいなくてもいいのだ。春歌が幸せなら。ここまで考えて初めて。トキヤは自分が今まさに抱く感情を怖いと思った。深い藍色を纏う夜明けの海を眺めながら、深いため息と共に。人を好きになるというのは、本当に、怖い。
トキヤの初恋は言うまでもなく春歌だったし、聞いたことはなかったが春歌の初恋もトキヤなのだろう。それでいいと思った。其れ以外に何が必要だったろう?
そこまで考えてトキヤは開いていた瞼をそっと閉じた。背中の向こう側で春歌が小さな声で歌っている。名前も知らない、はじめてきいたうた。――それなのに、どうして。自分は、春歌がいなくたって、一人で生きていけるかもしれないなんて、そんなことを思ったのだろう。
「一ノ瀬さんはわたしがいなくたって大丈夫そうですね」
弾かれたように振り返ると、春歌はトキヤの方を見ないで、カーテンの隙間から覗く月をぼんやりと見つめていた。雪のように白い肌が、月の光を浴びて余計に青白く見える。ギリシャ彫刻のように精密で精巧な美しさ。触れたら壊れてしまいそうな儚さを内包した。
「…どうして、そんなことを?」
「一ノ瀬さんが考える事、わたし分かるんですよ」
ぽつりと零された言葉が宙に浮く。多分、わたしも。どこか淋しそうに付け足された言葉を上の空で聞く。
トキヤが春歌がいなくても大丈夫なように、春歌もトキヤがいなくて大丈夫なのだという。何より恐ろしいのは、その言葉が嘘だとは確かに思えないことなのだ。昔の、学生時代の自分だったら。それは嘘ですと、あなたにはわたしが必要で、わたしにはあなたが必要ですときっぱり言えただろう。けれども、今の自分には其れが出来ない。彼女の言葉を嘘だとは思えないし、何より自分がそう思ったことは確かに嘘ではなかったから。
この世界で生きていくのに必要なのは慣れ合いではなく、支え合い共に歩いて行く掌なのだ、そのことに気づいたのは果たして何時だったか。

「一ノ瀬さんの背骨は本当に綺麗ですね」
そう言いながら背骨をなぞる。まるで背骨から翼が生えて、その翼で飛んでいってしまうのを恐れているような口調で。
「はるか」
呟いた言葉は果たして音になったのだろうか。そのまま春歌が消えてしまいそうな気がして、無理やり捻った体で抱きしめる。間近で覗き込んだ、甘く蕩けた瞳の奥で、刹那過ぎった光にどう反応すればいいのか分からないままトキヤは言う。
押し倒した体の下でふわりとシーツが舞った。春歌の柔らかい指先が背骨をなぞる。本当に、きれい。
「…本当にそれだけですか」

眼前のひとが、やわらかく、たのしそうに、微笑む気配がした。





//有海
∴よるのほね