舌っ足らずな声で「はるか」と名乗った幼い少女は、まだ少しの時間しか経っていないにも関わらずひどく懐いているように見えた。現に今だってやけに楽しそうな那月の膝の上で、那月が器用に小さく切り分けて渡す果実を嬉しそうに咀嚼している。余程空腹に耐えかねていたのか、口に運ぶ頻度は落ちない。果汁を纏ってベタベタと光る口元だけが不快だった。 「はるちゃん、美味しいですかぁ?」 「はい、おいひいです!」 (懐いてやがる…) 那月のふわふわとしたしっぽが機嫌よさそうにゆらゆらと揺れている。口元をもごもごと動かしながらそれでもはるかの視線はしっかりしっぽに固定されていた。どうやら触りたくて堪らないらしい。そういえば那月が抱きあげた時もその形のよい耳をどうにかこうにか触ってやろうと躍起になっていたことを思い出す。当の本人はそれに気付いているのかいないのか、取り敢えず上機嫌でしっぽを揺らしたままだ。 はあ、とついた溜息を空中に浮かべたまま砂月はぼうっと空を見上げた。夏もそろそろ終わりかけの空は、それでもまだまだ目が眩むほどに眩しい。蝉の声すら聞こえない此処では夏であることすら時折忘れてしまうほどだったけれど。 砂月は夏が嫌いだった。体温調節がうまくいかない砂月にとって茹だるような暑さは天敵以外の何物でもなかったし、陽射しは瞳を突き刺し焼き殺さんとする。空を見あげればあまりの眩しさに眩暈を起こすほどだ。好きになれるところなんて一つも思いつかなかったけれど、嫌いなところはこれでもかというほどに浮かんでくる。嗚呼でも、たった一つ。好きだといえるところを上げるならば――― 「さつきくーん!」 咄嗟に体を反転させるとべしゃあという嫌な音がして、すぐ真横で誰かがすっ転んだ。はるちゃん!慌てたような声の主を除外すれば、その音の主は一目瞭然である。痛みを覚えそうな頭をなんとかそちらにやると、案の定薄桃色が転がっていた。春の陽射しを集めたような髪が生温い風に揺れて視界を犯す。 「はるちゃん!大丈夫ですか!?」 「な、つきくん」 「何やってんだお前…」 「しっぽ…」 「はあ?」 「しっぽ!ふわふわもふもふなんです!」 「…解読してくれ」 「はるちゃんはさっちゃんのしっぽも触りたいみたい」 那月がよっこいせ、妙な掛け声と共にはるかをもう一度器用に抱き上げた。当の本人は盛大に転んだ割に傷一つ付いていない雪のように白い足をばたつかせて、泣き喚くこともなくしっぽ!と一言だけ叫ぶ。どうやら砂月が目を離していた隙に那月は自分のしっぽを自由に触らせていたらしい。現に今も興奮したはるかを落ち着かせるために眼前でゆらゆらと揺らめかせている。はるかといえば途端に砂月のしっぽへの興味を失ったのか、楽しそうに那月のしっぽに頬ずりしたりぎゅうっと抱きしめてみたりと忙しない。その光景は決して見ることも望むこともないと思っていた未来によく似ていて、鈍い痛みが頭を駆け抜けていく感覚を砂月は漸く自覚した。 夏の陽射しによく似ているきらきらと輝きを増す瞳のその奥に、絶対的に相容れない白線を見出す。触れてはいけない、白線は何時だって眩しいままで。夏の後に訪れるであろう季節に酷似した色に触れる、べたべたと光る掌だけが、不快だった。 (…不快?) 「さつき、くん?」 舌っ足らずな声は遠い遠い世界のようだった。聞こえるはずのない蝉の声が鼓膜の裏側で歪曲する。思いだせ、世界を。 「…なんだ、その期待に満ちた目は」 「さつきくんのしっぽにもさわりたいです!」 「却下」 「うー、もふもふしたいです…」 「それ以上言うなら犯すぞ」 「わたしとあそぶですか?」 「ちげぇよ阿呆」 どれだけ辛辣な言葉を投げかけても。はるかは苦しそうな顔一つしないで笑っていた。どうして自分が此処にいるのか、此処にいることがどれだけ不幸なことなのか、きっと分からないのだろう。那月はそれでいいと思っている節がある。だから言わないしはるかの好きにさせている。けれど、それではいけないのだ。だってほら、今も悲しみと淋しさをうんと詰め込んだ賑やかな音が遠くから聞こえてくる。 「さつきくん、さつきくん」 「あ?」 「りんごです!」 ぐうんと伸ばされた雪のように白い腕、対照的な赤色を差し出す小さな掌。受け入れてはいけない筈のものを確かに視界に収めながら、それでもその動作があまりにも必死だったものだから思わず少しだけ笑ってしまう。本当に、すこしだけ。 「わっぷ」 「おい那月、お前はこいつの手でも洗いに行って来い。ベタベタで見てるだけでも気持ち悪ぃ」 「え、さっちゃんは何処行くの?」 「こいつに食われた分の食いもん取ってくる」 「はあい、よし、はるちゃんこっちですよー」 「さつきくん、どこいくんですか?はるかも!う、わっ」 「ばーか」 悟られないように、それでも意を決して触れた春の光は、思いの外清らかだった。わしゃわしゃと気の向くままに掻き回しながら思う。 告げようと思った言葉がそのまま外に出ることは、ついになかった。 //有海 ∴ついえのうた (title:埋火) |