砂月と喧嘩した。内容は覚えていない。些細なことだったような気がするけれど、一体何だったの思い出せなかった。チリリと頭が痛んで、追い払うように頭を振る。かちゃりと手元のティーカップが小さな音をたてた。
当の砂月は何を考えているかよくわからない顔をして、窓辺で本を読んでいる。端正な顔は崩れることがなく、それが少しだけ悔しい。わたしはいつも振り回されてばかりなのに。彼が振り回されたらどんな感じになるんだろう、全く想像がつかないね、と以前傍にいた愛猫に語りかけるように心の奥で呟きながらティーパックを取り出した。パッケージにはハッピーストロベリーと大きな文字が躍っており、その下には小さく夢のような恋の味と書かれていた。恐らくストロベリーティーなんだろう、飲んだことがないから楽しみだ。しかし、砂月はどうだろう。もしかしたら苦手かも知れない。一度気になりだした疑問はむくむくと心の中で大きくなっていく。一言、「ストロベリーティーはお好きですか?」そう聞くだけなのに喉の奥に何かが張り付いたようにうまく声を出すことが出来ない。思い出せもしない喧嘩の内容を引きずっているのだろうか、それとも『喧嘩している』という事象を言い訳に、砂月が返事をしてくれないという可能性に怯えているのか。どっちも当たりの様な気がしたし外れである様な気もした。小さく震えた指先がティーカップを滑る。
「さつき、くん」
なんとか絞り出した声は驚くほど小さかった。ともすれば木々の葉擦れの音と聞き間違えてしまうかもしれないそれを自覚して、こんな声じゃ返事なんてある筈もないと、もしかしたらこの結果を狙って出したかもしれないのに、少しだけ泣きたくなった。聞こえている筈がない、こんな小さな声。けれども、もう一度呼びかけることは、どうしても出来なかった。
暫しの静寂。手に持ったストロベリーティーの小ぶりの箱が眼に痛い。どうしようどうしようどうしようどうしよ、う。混乱する頭は正確な思考すら奪い去る。
その時、だった。
「……なんだよ、名前呼んどいて何もなしか」
「…え?」
本に向けられていたはずの翡翠色の瞳が確かにこちらを向いて訝しげに細められた。柔らかい亜麻色が光に反射してきらきらと輝いている。聞こえたんですか。何が。私が名前を呼んだの。……聞こえるにきまってるだろ。
「お前の声を聞き逃したことが、一度だってあったかよ」
息が、つまる。うまく、呼吸ができない。目の前が揺らいで、どうしたらいいか分からなくなる。誰かを好きでいることはしんどい。『恋は決闘です。もし右を見たり左を見たりしたら、敗北です』という言葉があるように、ずうっとその人だけに視線を固定して生きていかなくてはならない。正直、砂月を好きでいることは、しんどい。彼の一番にはどうやったってなれない。一番にしてくれない人をずっと好きでいることはとても、とても、苦しい。でも、と一瞬だけ瞼を下して小さく笑った。しんどいけど。苦しいけど。やめてなんかやらない。
「ストロベリーティーのティーパックを頂いたんです。砂月くん、飲めますか?」
「…飲める」
「良かった。そうだ、今日のおやつは何がいいですか?昨日沢山買っちゃったから、好きなの選んでいいですよ」
このストロベリーティーのように夢のような恋なんてきっと出来ないし味わえもしない。でも、わたしはそれを選んだのだ。この人の隣で夢ではなく現実を見ようと思ったのだ。夢の世界に彼はいないけど、現実の世界になら彼はいるから。夢の世界ならわたしを一番にしてくれたかもしれないけれど、そんな夢の世界なんかいらない。だって、わたし。わたしを絶対に一番にしてくれないこの人が好きなの。
さよなら、青い鳥。あなたが導く夢のような幸せの国よりも。わたしはしんどくて苦しくて、でも彼がいる世界を選ぶわ。
「………アップルパイ」
たっぷり鐘の音三つ分の沈黙の後、躊躇いがちに呟かれた言葉に小さく笑ってわたしはパッケージを開けた。




//有海
∴プリズム