これのつづき


あなたを傷付けたいの、と泣き出しそうな声で言った少女の声が耳の奥で反響して、砂月は閉じていた瞼を押し上げた。枕元に置いていた携帯を開いて時間を確認すると丁度午前六時を過ぎた頃だった。遠くで雨の降っている音がする。隣で静かに寝息を立てる少女を起こさないようにそうっと起き上がると、窓に近づいた分余計に雨の音が近づいたような気がした。雨の音に呼応するかのように背中につけられた無数の爪痕がきしりと鳴く。不思議と痛みはなかった。赤い液体は乾いてその残り香が僅かにこびりついているだけである。あなたを傷付けるにはどうしたらいいの、迷子になった幼子のように震える声で呟かれた言の葉を自分はまだ、覚えている。そうして、暫くあどけない少女の寝顔を黙ったまま見つめていたが、なんとはなしにその清らかな雪のように白い頬に触れてみたくなってゆっくり掌を伸ばしてみる。傷一つないその頬は砂糖菓子のように甘そうだった。
「さつ、き、くん」
ハッと我に帰ったように砂月は息を詰めた。触れるはずだった掌は空を切り、そのまま何にも触れることなくベッドの上へ下ろされた。寝言だったのだろう、少女はその動作に気づくこともなく穏やかな寝息を立てたままで。
――望んではいけない未来を垣間見たような気がした。
傷付けたいと言った少女の声を忘れられないのは他ならぬ自分がそう望んでいるからだ。深く深い傷を、一生どう足掻いても癒えることのない傷を他ならぬ自分がつけて欲しいのだ。そうすれば少女が自分を忘れてしまっても自分は、自分だけは、少女のことを覚えていられる。忘れられずにいられる。そんなことを言ったら少女は忘れません、忘れられませんと怒るかもしれなかったけれど。
砂月は那月を守るために生まれた。那月が寂しくないように、寂しくさせないように。その柔らかな心が傷つくことがないように。誰もいない闇の中、嘘みたいに綺麗で、どうしようもなく綺麗で、硝子みたいだと思ってしまうほどの存在。砂月にとって那月とは絶対不可侵、絶対庇護の対象。どんな事象からも守り慈しむべきだと思っていた。否、今でもそう思っている。――それなのに。今の自分は那月を傷付けることをしてばかりだ。
那月が少女に好意を持っているのは知っている。少女のためなら、少女に嫌われないためなら何でもすると、そう公言してはばからない那月はその言葉の通り無茶をして当分の間起きることのない眠りについている。だから砂月は何時那月が起きてきてもいいように代わりに働くだけだった。今までもそうしてきたし、これからもそうしていくものだと思っていた。那月以外は本当に心の底からどうでもよくて、そんな毎日がこれからもずっと続いていくのだと疑いもしなかったのだ。何時もと同じように那月を傷付ける対象を排除して排除して。少女のことも排除するつもりだった。もう二度と那月を傷付けることがないように、そのためにはいくらだって自分が嫌われてもいいとすら思って。けれども。少女は一向に自分を嫌う素振りも見せず、排除しようと躍起になればなるほどあるはずもない心を侵食してきた。名前を呼べばくるりと振り向いて、何時も何時も首を傾げて嬉しそうに笑うのだ。
それは。気付いてはいけない感情だった。
きしりと鳴く背中の傷をなぞる。抉るように付けられたそれをゆっくりなぞる様は、傍から見れば愛しい何かを撫でているようにも見える。その爪痕に込められた想いを静かに受け取って、砂月は小さく笑う。こんな日が来るとは思わなかった。そばにいることがこんなにも嬉しくて、何よりもつらいなんて。
「はるか」
名前を呼んだ。まるでそれしか出来ることはないというように何度も何度も繰り返し繰り返し名前を呼んだ。ともすれば雨音に掻き消されてしまうかもしれないそれは、少女の耳には届かなかったらしい。あどけない寝顔をぴくりとも動かさない。それでいいと思った。本来ならばそれで、それが正しい。まだ頬に触れることは躊躇われて、代わりにそうっと柔らかな髪に触れた。
想いは言葉にしなければ届かない。言葉にしなければ、声にして告げなければ決して届かない。ならばもう一生この想いを告げることはないままでいよう。砂月は那月が大切だ。だから自分の想いよりも那月のつらさを消す方を選びたい。その結果少女が泣くことになっても。大丈夫だ、だってお前には那月がいるだろう?何を悲しむことがあるんだ、ばかだなあ。那月の傍にいればもう、泣くことなんてないから。
(いつだって。自分が願うのは。たった一つだけ、だったのだ。)
のそりとベッドから降りて何か飲み物でもいれようとキッチンへ足を向ける。珍しく早く目覚めることが出来たから、たまには少女の好きな紅茶でもいれてやろう。蜂蜜をたっぷりいれた甘い甘い紅茶を用意していればそのうち起きてくるはずだから、そうしたら今日は意地悪でもなんでもなく、普通に挨拶をしてやろう。消えない癒えない傷を付けたいと、泣きそうな声で言ってくれたのが嬉しかったなんて絶対に言ってはやらないけれど。ああでも、願わくば背中についたこの爪痕だけは消えずに残ればいいとそんなことを思いながら、いつか自分を記憶にしてしまうであろう少女のためにお湯を沸かし始めた。






//有海
∴ひとりぼっちの鵺はいう
(title:リリギヨ)