暗闇が膝を抱えて座る部屋で傷だらけの背中を見る。そうしてわたしはそっとその爪痕をなぞった。ぴくりとも反応しない背中が恨めしくて、何度も何度も爪痕を抉るように指先を滑らす。それでも雪のように白い背中は何の反応も示さない。
「痛くないんですか」
「べつに」
ぎりり、と爪をたててみる。雪のように白い背中に新しく赤い爪痕が増えた。もっともっと痛くしたい。もっともっと苦しくしたい。わたしの痛みの分だけ、わたしの苦しみの分だけ。あなたの大きな掌に翻弄されて喘ぐことしか出来ないわたしの苦しみを、痛みを与えたかった。
「痛くしてるんですよ」
「知ってるけど」
「痛いですか」
「別に」
「どうしてですか」
「何が」
「どうして痛くないんですか。こんなに痛くしてるのに。こんなに苦しくしてるのに。わたしはあなたを、傷付けたい」
「――泣きそうな声して何言ってんだよ」
そこまで言われて漸く自分がひどく泣きたい気持ちだということに気が付いた。隠されていた翡翠色の瞳がこちらを向き、大きな掌が頬を包む。温かいのに、とても温かいのに。どうしてこんなに遠いの。歪み眩む瞳で眼前の男を見つめると、彼は獰猛な肉食動物にも似た瞳をふっと和らげて笑った。何でそんな顔してんだ、ばか。
「わたし、あなたを傷付けたいのに。傷付けたいのに、あなたは痛くないって言うから。どうやったらいいの。どうやったら苦しくなるの。どうしたらわたしは、」

あなたに消えない疵を残せるの。

ブチッと嫌な音がして、鈍い痛みが指先を襲った。緩慢な動作で指先を見ると、薔薇と同じ色をした液体がダラダラと溢れ出している。痛い、と思う前に言いようのない安堵を感じて、わたしは小さく息を吐く。この身に流れるものは彼と同じだった。
男はちらりとわたしを見て、何も言わずにがぶりと指を食べた。
「………っ」
「痛いか」
「いた、いたい、です」
「傷付けるっていうのはこういうのを言うんだよ」
「や、だ、喋らない、で」
「もっと痛くしてやろうか。もっともっと痛く、もっともっと苦しく、その傷が癒えることがないくらいに」
先程の柔らかな光は消え失せて、ギラギラと獰猛な光だけがそこにあった。何もかも食べつくさんとするその瞳に、わたしは何も出来ずに飲み込まれるだけ。
――嗚呼だからわたしは、あなたに消えない疵をつけたかったのだ。あなたがわたしを食べてしまったら、もう何も残らないから。あなたがわたしを忘れてしまうんじゃないかと、そんな恐怖と戦うくらいならいっそ。
がたんと大きな音をたてて押し付けられた壁の冷たさと、飲み込まれた唇の熱さと。太股を這う、火傷を覚えるくらいの熱を孕んだ掌の感触に世界を侵食されるのを感じながら、もう一度、もう一度と駄々をこねる幼子のように彼の背中に爪をたてる。ぎりり、と赤い線がまた一本、彼の背中を汚していく。
「さつき、くん」
震え重なる吐息の向こうで名前を呼んだ。彼は獰猛な光を宿したまま、はるか、とたった一言、わたしの名前をなぞる。
「痛く、してやろうか。お前が二度と俺を忘れないように」
その言葉に目尻から何かが零れ落ちるのを感じた。透明な透明なこれは涙ではない。彼の面影を揺らすこれは決して。
彼の熱いだけの舌先が頬を撫でるのを感じてわたしは小さく呟くのだ。
もっともっと痛く、もっともっと苦しくすればいい。二度とわたしがあなたを忘れないように、癒えない疵を与えるあなたから離れられないように。深く深く体の奥底まで、あなたの望む方法で疵をつければいい。きっとわたしは。すべて大事にしてしまうに違いないから。
「……うん、そうして」









//有海
∴瘡蓋を剥がす真似
(title:埋火)