彼はいつも大抵生物室にいる。生物室の蝶の標本と目高の水槽の間、微妙に開いた隙間に埋もれるようにして目を閉じている。青白いその顔はどこか生気がなく、よく出来た彫像を思い出させた。
「……鷹介先輩」
「やあ、月子ちゃん」
月子が声を掛けると、彼は眠たそうな瞼を押し上げて力無く笑った。彼が動くたびに触れ合ったガラスの表面がかたり、と音を立てる。標本みたいなひとだと思う。美しさの最上で動くことを止めてしまった。それが自発的なものなのか他人によるものなのか、解りにくい部分ではあったけれど。近くにあった木製の椅子をずるずると引きずって腰を下ろす。長い髪が引き攣れて痛かったけれど、大して不快には思わなかった。鷹介は一挙一動を何も言わず、揺らめく瞳のまま黙って見つめている。
「そういえば、鷹介先輩」
「ん?」
「噂、聞きましたよ。新任の英語教師誑かしたって。あんなに綺麗で若い先生がずっと鷹介先輩のことばかり気にかけているから」
鷹介は眠たそうな瞳を一度、何かを思案するように目高の水槽へ動かした。目高の水槽は心なしか居心地が良さそうに見える。遮るものも何もない、完成された小さな世界。水草が音もなく揺れる様は、どことなく世界の果てを思い出させた。鷹介が何を考えているのか、月子にはさっぱり解らない。
「……月子ちゃんは、どう思う?」
「は、い?」
「俺が新任英語教師誑かしたって、本当にそう思う?」
囁かれた言葉は静かだった。思わず鷹介を見遣ると、彼は深海魚の瞳で月子を真っ直ぐに見詰めている。
鷹介は校内でも有名な色男だった。常に何かしらの噂が纏わり付いている。その噂の真偽は本人が何も言わないのでわからないままだ。尋ねられた言葉を反芻して月子は暫く瞑目する。どちらでもよかった。もしかしたら、どうでもよかったのかもしれない。月子の目の前にいるこのひとが、月子の知る全てだったから。
「ようすけせんぱい」
何も答えない月子に痺れを切らしたのか、鷹介の冷たい掌が頬を滑った。冷たい、深海魚の体温。月子とはこんなにも違う。

ようすけ、せんぱい。
わたしの掌はいつかきっと、あなたを殺すのです。

「月子ちゃんはあったかいね」
「鷹介先輩は、冷たいです。深海魚みたい。わたしのこの温度はきっと先輩を傷付ける」
逃げるように身を引くと、体が椅子にあたってガタリと大きな音をたてた。わたしの世界はあなたを傷付ける。あなたを傷付けてまで、わたしはあなたの世界にいたくない。
鷹介は少しだけ寂しそうに笑って、何も触れなくなった掌をそっと下ろした。空を切った虚しいだけのそれを、いつか誰かが掴む日はくるのだろうか。
――その日を知るのはたった一人だけ。
「――俺は、月子ちゃんになら。傷付けられても、よかったよ」
鷹介の声に月子はいやです、いやですと頭を振りながら小さく呟いた。一歩また一歩と後ろに下がる度に世界が分かたれていくような気がした。それでも、どうしても。





//有海
∴救わない右手
(title:獣)