茹だるような暑さを抜けて、冷房が効いた部屋に足を踏み入れる。ただいま帰りました、思ったよりも小さくなった言葉に返事はない。今日の彼は一日オフだから家にいると言っていた筈なのだけれど、訝し気にリビングを覗くと、珍しく神宮寺さんがソファーでうたた寝をしている。はみ出した手にはメモ帳。ソファー下にはボールペンが所在なさ気に転がっている。どうやら作詞をしている最中に寝てしまったようだ。起こすか起こさないか。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。ゴオッゴオッと単調に冷たい空気が吐き出される音を聞きながら、わたしは立ち止まった。起こした方がいいのかもしれない、多分。起こしてソファーから移動させた方が、もっとしっかり眠れる。でも、寝ている彼を観察するチャンスでもある。少し考えて、私は寝室に向かった。寝室からタオルケットを持ってきて神宮寺さんにかける。メモ帳はそのままにしておいた。取る時に起こしてしまっては意味がないから。タオルケットから覗く寝顔はあどけなく、どこか幼い子供を思い出させる。
「ふふっ、子供みたいです」
普段はとても大人っぽいけれど、寝ているその顔はなんだか子供のようで。
小さい頃の彼の様子をわたしは知る由もなかったけれど、もしかしたらこんなあどけない表情をした、可愛らしい子供だったのかもしれない。もぞり、微かなうめき声を漏らしながら彼が身を捩るのを一瞬文字通り息を止めながら見詰めていたが、どうやらただ寝返りをうっただけらしい。思わず伸ばした指先は払われることもなく頬を滑る。可愛い、なんて直接言ったらどんな顔するのかな。そんな事を思いながら、暫くの間、眠る神宮寺さんの顔を眺めていた。

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夕食の支度も大方終わり、後は当の本人が目覚めるのを待つだけとなった。夕食のことを考えれば、もうそろそろ起こした方がいいのだろう。春歌としても温かい夕食を食べてもらいたい。それでも起こさないのは、日頃の疲れを癒して欲しいからなのか、はたまた寝顔を見詰めていたいからなのか。本音を言えば間違いなく後者だったりするのだが、本人に言える筈もない。何とは無しに付けたオーディオから流れてきたのは最近の彼のお気に入りだというクラシックで、音の流れに身を任せて瞼を下ろすと、裏で音符が弾ける。
「じんぐうじさん」
今なら呼べるかもしれない、と春歌は思った。面と向かって呼ぶには今だ気恥ずかしいその二文字。彼が呼んで欲しいと思っているのは理解していたし、呼びたいと他でもない自分もそう思っている。ただ、羞恥心やよくわからない何かが邪魔をして肝心の二文字は喉の奥で燻ったまま。
「………」
開きかけた口は音にならないまま中に消えた。春歌はそろそろと押し上げた瞼を何度か瞬かせて、少しだけ笑う。あなたの名前は魔法の呪文みたいね、呼ぶだけでこんなにも幸せになれるの。
滑らせた指先が太陽のような髪を撫でる。その光のような眩しさがいつだって眩しかった。光を孕んだわたしだけのまほうつかい。後にも先にもわたしのまほうつかいはあなただけ。そうして春歌は指通りの心地好さに目を細めながら、彼の目覚めを待つ。目覚めた、重い瞼を擦る彼に言う言葉は既に決まっている。





//有海
色付き文字は志乃さんに考えて戴いた文章です。すごく素敵な文章を有難う御座いました。