背負っている月子は意識を失ってしまったのか、はたまたただ眠っているだけなのか、先程から一言も発しない。時折荒く吐かれる息が余計に翼の不安感を煽る。ただの熱だ、そう言い聞かせようとしても思考は嫌な方嫌な方へと転がっていく。たとえただの熱であっても、これ以上長時間真冬の外に居るのは自殺行為だろう。このまま月子が目を覚まさなかったら、一瞬脳裏を考えたくもない未来が過ぎって、みっともなく視界が雫で滲みそうになった時だった。
「……病人か?」




空色の髪、不思議と落ち着いた光を宿した瞳に目を引く長身。羽織っている白衣は雪の様に白いこの男は、この村で村医者をやっているという。翼たちを発見した時はたまたま足りなくなっていた薬草を採りに森へ入って来ていたらしい。つくづく自分たちは運が良いと翼は安堵の息を吐きながら、てきぱきと動く医者――星月琥太郎を見つめた。月子は寝台の上に寝かされて、時折投げ掛けられる琥太郎の問い掛けに、掠れた小さな声で答えていた。質問に答えられるだけの元気はあるみたいだから、すぐに良くなる、そう言って琥太郎は薄く笑う。
「にしてもお前たちはどうしてあの森の中に居たんだ…」
その問い掛けに翼も月子も答えることが出来ない。【清明】を追う人間から逃げてきたのだと言えば、きっと通報され捕まってしまうと思ったからだ。それだけ【清明】の話は人々の心を侵食している。琥太郎は黙ったままでいる二人を最初こそ訝し気に見つめていたが、やがて諦めたのだろう、小さく溜息を吐き濡れたタオルを月子の額に乗せた。
「……ん?」
月子は熱を逃がす為に、この村に来るまで来ていた厚手の洋服から琥太郎の用意した薄手の洋服に着替えていた。けれど、琥太郎が気に留めたのは洋服ではなく、不自然にはめられた黒い革製の手袋だった。両手にはめられていたら不自然に思わなかったかもしれない、しかし月子は左手にしかその手袋をはめていない。それは医者として当然の行為だった、琥太郎はその手袋を脱がせようとしたのだ。その瞬間月子の瞳に宿る光の色が変わった。今にも泣き出しそうな、迫り来る恐怖に怯えるような、悲しみとも恐怖ともつかない、寧ろそれら全てをないまぜにしたような――形容するなら絶望という二文字が相応しいだろう光。掠れた声で月子が、やめて、と叫ぶのと、翼が強い力で月子を抱き寄せるのと、琥太郎が手袋を脱がすのはほぼ同時だった。現れたのは雪のように白く小さな掌。茨が絡み合ったような、罪と罰、そして春を閉じ込めた、罪深き左の掌。
「…お前が…【清明】…?」
「月子!立てるか!?」
翼の焦った声が響く。ふらふらと不安定な足を奮い立たせて、月子はなんとかその場に立ち上がる。動けるか?、翼の問い掛けに小さく頷いた。
「おい、お前たち何処に…」
「ここじゃない何処かだよ!もうここには居られない。行こう、月子」
「まだそいつは熱が下がってないんだぞ!?」
「それでも!ここに居るより何倍もいいよ!俺たちは逃げなくちゃならないんだ。月子を渡すわけにはいかないんだよ!俺は、月子を、」
その叫び声は、遠い祈りにとてもよく似ていた。【清明】。それはこの世界に春を呼び寄せる者の名。その名は罪深き罪業の証。だから翼はまだ【清明】の名しか持たない彼女に言ったのだ。
今日は月が綺麗で、君は月からの使者みたいだから、月子。今日から君は月子だよ。【清明】じゃない、一緒においで――もう一人きりで居なくていいんだ。もう、泣いても、いいんだ。
翼の揺るぎない瞳が琥太郎には眩しかった。自分にもあっただろう、世界とたった一人を天秤にかけた上で、たった一人を選び取るだけの、今は失ってしまった勇気を、確かにそこに見た。だから、
「俺は医者だ。怪我人や病人を治療するのが俺の役目で、それが誰であろうが、だ。……俺は何も見ていない。だから治療ぐらいさせてくれ」
と、少しだけ淋しそうに、それでいてとても優しい声で言った。







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