あなたという名前の物語に食べられたい。



「春歌ってさ」
雨の音が響く部屋の中でぽつりと零された言葉を、春歌はどこかぼんやりとした気分で聞いていた。眼前で少しだけ寂しそうに笑う表情を眺めて、ああこのひとにこんな表情をさせているのは自分なのだと漸く気が付く。どうしたんですか、搾り出した声は掠れていた。
「…いや、何でも」
何かから逃げるように伏せられた瞼を追いながら、春歌は昼の出来事を思い出す。久しぶりにゆっくり時間を取って話すことができた友人の言葉を。

◇◆◇

運ばれてきたアイスコーヒーを掻き混ぜると、重なり合った氷がからりと音を立てた。ガムシロップいる?と横から差し出されたものを慌てて受け取ると、オレンジジュースをすすっていたもう一人が面白そうに笑った。右隣りに座るのが早乙女学園時代からの友人である友千香であり、正面に座るのがシャイニング事務所で知り合ったモデルの神崎ちほである。三人とも互いの仕事が忙しくてなかなかゆっくり会う機会がなかったため、久しぶりにオフが重なった今日、待ってましたと言わんばかりに約束を取り付けたのだ。
「春ちゃんってさ、一十木くんと付き合い始めてどれくらい?」
女子で集まれば必然的に話題はそういったものになるようで、聞いたのはオレンジジュースのグラスを弄ぶちほだった。
「え、と、もう四年…かな」
「えー!もうそんなに経ってたんだ。はっやいなあ」
「時の流れとは実に残酷なものだよ、友」
「なかなか渋いことを言うのね、ちぃは」
早乙女学園を卒業してからもうそんな時間が経っていたのかと、半ば感傷に浸る思いで春歌は窓の外を眺めた。夏の陽射しは眩しく、外での撮影は大変そうだ。そういえば音也は今日外での撮影だと言っていなかったか、送られてきたメール文面を思い出して、少しだけ眉を寄せる。倒れたりしなきゃ、いいのだけれど。
一人別世界へと思考を飛ばす春歌を余所に、友千香とちほは楽しそうに会話を続けていた。やれどういうタイプがいいだの、やれこういう男は嫌だの。そういえばちほには一回り年上の彼氏がいたように思うのだが、このような話をしていてもいいのだろうか。不思議そうにちらりとちほを見遣ると、何かを企んだ表情が飛び込んできた。
「え、」
「ところで春ちゃんはもうしたの?」
「な、何が?何を?」
「ちょ、ちぃ!」
「だーかーらー」
セックス。
何でもないようにちほはそういって笑った。隣に座った友千香がはああああと大きな溜息を吐く。対して春歌は言葉の意味を咀嚼するまで長い時間を要した。いや、理解したくなかったのかもしれない。けれども完全に理解し得ないほど子供でもないわけで、言葉の持つ意味を理解した途端、顔に熱が集まるのが分かった。そ、そんな、わたしは、くらくらする視界の先でちほが猫のように笑う。
「おー?初々しいね。この反応はもしや」
「ちぃ、あんたいい加減に」
「………ないです」
「へ」
「春歌?」
「そういうこと、は、してない、です」
「ちょっと、ちぃ!春歌を泣かせないでよ!」
「えぇ!?ご、ごめんね、春ちゃん。そういうつもりじゃ、あ、オレンジジュース飲む?」
「馬鹿ちぃ!」
くらくらする視界の先で大慌てする二人をぼんやりと眺めながら、脳裏に描いたのは太陽のようなひとだった。
音也くんも男の子だし、そういうこと、したいのかな。一般的知識としては理解しているけれど、それが実際どういうものなのかわたしは知らない。音也くんが言い出さないから今まで先送りにしてきただけだ。見ないふりも知らないふりもわたしは上手だから。
「音也くん、も。そういうこと、したいのか、な」
「さ、さあ…」
「………」
ばつが悪いのかちほは視線を明後日の方向に向けたまま何も言わない。その横顔が、何故かとても美しいもののように春歌の目には映る。
「ちぃちゃん」
「……聞いたわたしが言うのもあれなんだけど、わたしは一十木くんじゃないから、よくわかんない。そういうの、男の人の方が強いって聞くし、そりゃ一般論的にはしたいのかなあって思わないでもないけど。でも今までなかったんなら、一十木くんはそういうこと気にしない…っていうか、春ちゃんのことを大切にしたいんじゃないかな彼は。体を重ねるだけが愛じゃないでしょう」
「……うん」
夏の陽射しが眩しい。彼は今何をしているのだろう、窓の外はとても暑そうだった。音也くん、呟いた声は誰に聞かれることもなかった。

◇◆◇


それきり黙ったまま何も言わない音也の頬目掛けてそっと手を伸ばした。びくり、と大袈裟に反応するのが可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「はる、か?」
「おとやくん」
大切だと、そうしたいと思ってくれるのは、嬉しい。けれども、だからといって我慢するのは違うと春歌は思う。いいのだ、好きなようにしてくれて。春歌は相手が音也なら何だって幸せに変えてしまえる。痛みでも苦しみでも、音也が与えてくれるものなら何だってずうっと大切にする。少しでも伝わればいいと、その温もりに願った。
「……はるか、あのさ」
「はい」
「今日レンに言われたんだけど、あ、別に感化されたとかそういうわけでもレンのせいにするわけでもないんだけど!つまり、何がいいたいかって、だから、春歌は、その。俺とさ、」
「……はい」
「そういうこと、したいと、思う?」
見上げた表情は熟れた苺のように真っ赤だった。
――多分、彼も同じ気持ちなのだ。
「わたしは、」
「い、いや!いいんだ!別に強要したいわけじゃなくて、その、別にそこまで切羽詰まってるわけじゃないし俺は春歌と一緒にいられれば幸せなわけで、あ、でもしたくないわけじゃ!――って、俺何言ってんだろ…かっこわる」
「――だいじょうぶ、こわくないよ」
「え」
「かっこわるくても。わたしは、音也くんなら。何されても、嬉しくて、幸せなんです。音也くんの好きなようにしてくれて、いいの。わたしは全部全部、ずうっと、大切にします。だから、だいじょうぶ。こわくないよ」
「……はるか、」
音也の大きな無骨な掌が躊躇うようにそれでも優しく頬を撫でて、春歌はゆっくり瞼を降ろした。ねえ、わたし。今までもこれからも。ずっとしあわせなの。あなたがとなりにいるから。
「……ごめんな。俺、大事な決断をさせてばっかりで。卑怯でごめん」
「いいえ、いいえ。音也くん、ごめんじゃないです。ごめんなさい、じゃなくて」
「…うん。ありがとう。すきだよ、誰より。誰にもあげない」
近付いてくる気配を感じて、春歌はそっと笑った。




ケイクオンザストロベリー








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