00
あの雨の日から、わたしはずっと、動けないでいる。


01
「神宮寺レンにとって必要なものは、なんだと思う?」
ざあざあと大粒の雨が降りしきる日に、男はにやりともしないまま静かに呟いた。光を凝縮したような髪の色や誰もを虜にさせてしまうような顔立ちは、いっそ泣きたくなるほどに記憶の中の彼と同じで、思わず呼吸すら忘れそうになる。必要なもの、ですか。掠れた声は溶けない。
「そうだよ、必要なもの。きっと分かる。きみは、聡いから」
「そんな、ことは。わたしは愚かでどうしようもない、」
「あーほらほら。それだよそれ。そう分かっているからこそきみは聡いんだ。普通は知ろうとすらしたくないことを、きみは呼吸をするのと同じように理解しているね。レン――俺の弟すら嫌がって理解しようともしないことを」
「神宮寺さん、」
「それは、どっちの?」
にやりともしないまま、けれど何もかも見透かした瞳で彼は言った。
わたしは、分かりません分かりませんと譫言のように呟くことしか出来ない。

ざあざあと大粒の雨が、世界を拒絶するように傘を叩いた。

02
暗くなった部屋、テレビだけが存在を主張するように煌々と輝いている。虚構じみた光景を無感動に眺めながら、わたしは無機質な壁にぺたりと背中を付けて所謂体育座りをした。画面に映るのは丁度彼が出演している生放送の番組だった。収録開始二十分前、ちゃんと見ていてね、メールの受信を告げる音が鳴る。緩慢な動作で携帯を拾い上げて、そのままベッドに放り投げた。言われなくとも一度だって見逃したことなんかない。ざあざあと止むことのない雨が耳の奥で谺して、駄々をこねる幼子のようにただただ首を振る。わたしはちっともあの雨の日から動けないでいる。
「じんぐうじさん」
何時だったか、考え事をしている時、下唇を触るのが癖なんだねと指摘されたことがある。指摘したのは勿論他でもない彼だ。その仕種、色っぽいから好きだけど、レディはたまにべりってそのまま皮を剥いちゃうことがあるから、見てて痛々しい。その時わたしは何て返事をしたのだったか、ぼんやりと視線を横へずらすと、彼が引っ越し祝いにと送ってくれた大きな水槽が目に入った。綺麗な色だろう?暖かい地方にだけ住む、熱帯魚さ。この色合いがレディに似合うと思ったから、買ってしまった。プレゼントさせてくれるかい。引っ越し――新たな門出のお祝いに。
「……ばかなひと」
暖かい地方にだけ住む魚が、冷たいこの世界で生きていける筈がなかったのだ。
暖かい地方でしか生きることの出来ない熱帯魚が泳ぐ水槽と、それとは一線をかしたこの部屋は、まるでわたしと彼のようだ。小さな世界でしか生きられないわたしと、大きく広い世界へ歩み出していく彼。――大人になって初めて。好きという気持ちだけではどうしようもないことがあることを殆ど痛みのように理解した。
『神宮寺レンにとって必要なものは、なんだと思う?』
分かりたくないことは沢山あって、知りたくないことも沢山あった。先へ進む彼と、後にも先にも進めないわたし。大海原へ進む強さを持った彼のひとと、水槽の中でしか生きられないわたし。
―――――?
―――――!
テレビの向こうから聞こえてくる愛しい声に、思わず込み上げる何かを懸命に堪えるように膝に頭を埋めた。
「…たすけて」
だってこんなにも、くるしい。
最後に彼に会ったのは何時だっただろう。合鍵は渡されていたけれど、一躍トップスターに踊り出た『神宮寺レン』のスキャンダルを撮影しようとパパラッチが昼夜問わず張り込んでいるから行けるわけがない。逆もしかりで、彼がこの部屋に来るなんてことは殆どない。よくも悪くも彼は人目に付きすぎる。

ざあざあと鼓膜を侵食する雨の音が、日毎にわたしを苛むのだ。


気付けば番組は終わっていて、新発売のアイスクリームのコマーシャルが流れていた。雨の日はアイスクリームを食べよう、なんてばかね、溶けてしまうじゃない。
不意に携帯が軽快なリズムを奏でた。彼用に特別に設定した音楽だ。慌てて耳に押し付けると、柔らかな声が響く。
『こんばんは。見ていてくれた?』
「……もう。わたしが神宮寺さんの出ている番組を見逃す筈がないじゃないですか」
『そう、だったね』
「今日も素敵でしたよ。あのお洋服、とっても似合っていました。歌も、高音がこの間より綺麗になりましたね…!わたし、思わず聞き惚れてしまって」
『ははは、それは嬉しいなあ。レディをまた一つ、虜に出来る要素が見付かったのかと思うと』
「……何時だって、虜ですよ」
そう、かなしいくらいに。
暫く他愛のない会話をしていたが、不意に誰か別の人間の声が世界を切り裂いた。レン、そろそろ次の予定が。聞き慣れた低めの声はマネージャーのものか。わたしは漸く思い出す。彼のいる世界を。
『あ、ああ。ごめんレディ、じゃあ、また電話、』
「…………はい、お仕事、頑張ってくださいね」
『…………うん。じゃあ切るよ』
「…はい。……………………神宮寺さん」
『ん?』
「…逢いたいです。…我が儘言って、ごめんなさい」
ぷつりと、通話終了を告げる音が鳴った。静寂が世界を孕んで、聞こえるのはテレビと水槽が奏でる微かな音だけ。
『神宮寺レンにとって必要なものは、なんだと思う?』
テレビ画面いっぱいに映る親しげな男女の様子が何時の日かと重なって、わたしは少しだけ泣いた。









//有海
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