00
冬生まれのやさしいひとへ。


01
本番二十分前の舞台裏はやけに静かだった。幕の向こう側からは確かに人々の熱気が伝わって来る。それなのに幕一枚隔てた此処はあまりにも静寂に満ち溢れていて、まるで別世界に迷い込んだみたいだった。
――此処はアイドルと呼ばれる立場の人間なら誰もが一度は夢見る、憧れが芽吹く場所。
すぅと息を吸い込むと冬の香がした。自分が生まれた季節、孤独の居場所。祈るように瞼を下ろすと世界が遮断される。描くのは雪解けを導く春の体温。
「マネージャー」
静寂を切り裂く声を掛けると、存外近くにいたらしいマネージャーがどうかしましたかと駆け寄ってきた。こちらの突拍子もない注文にはもう慣れっこになったらしい、慌てる素振り一つ見せない。それがなんだかおかしくて、レンは喉の奥で噛み殺すような笑い声を零す。
此処は憧れの舞台だ。夢の結晶が眠る場所。仲間たちはまるで自分の成功のように喜び、祝福してくれた。それは今までの自分では考えられなかったことで、嬉しくない筈がない。嬉しくない筈がないのに、何故だろう少しだけ淋しい。前だけを見据えて脇目もふらず、ただがむしゃらに突き進んできた。だからこその今がある。分かっている、分かっているのだ。突き進む過程で何かを失っていたとしても、それは必要な喪失だ。理解している。ちゃんと理解しているのに。
一番大切なものは、まだ。この掌の中にきちんと残っているのかと。ちゃんと残しておけたのだろうかと。憧れの上に立った瞬間、不安になった。
「携帯を」
「…全く。開演二十分前なんですから、手短にお願いしますよ」
「分かっているさ」
短縮番号零番。後にも先にも登録されるのはたった一人きりであろうその番号を、レンは押した。


02
『…もしもし』
「やあ、突然ごめん」
『…神宮寺さん?』
ワンテンポ遅れて怪訝そうな声が返ってきた。レンの一等好きな、春の陽射しのように温かく柔らかい声。無理もない、開演二十分前にまさか当事者本人から電話が掛かってくるなど、誰が予想しえただろう。
怪訝そうな声はやがて不安の色を帯びて、何かあったのかと尋ねてくる。何でもないよ、と返しながら一体自分は何を望んで電話を掛けたのだろうかと、自嘲気味の笑みが零れた。何時から自分はこんなにも。
『緊張、していらっしゃるんですか?』
「さあ、どうだろう…いや、緊張しているのかもしれないね。こんな大きなステージは初めてだから」
『神宮寺さんの憧れが眠る場所ですもんね。緊張するのも無理もないと思いますよ…そうだ』
不意に携帯越しの声がトーンを変える。何かあったかと首を傾げていると、予想外の言葉が鼓膜を揺らした。
『まだちゃんと言えていなかったから…おめでとうございます。夢が叶って良かったですね。わたしもとても、嬉しいです』
瞬間、本当に息が止まったかと、思った。
「ハニー、それは」
『神宮寺さん、お忙しいみたいだからちゃんと言えてなくて。ずっと言いたかったんです。おめでとうございます。ずっと頑張っている姿を見ていたから、だから。すごくすごく、嬉しいんです。神宮寺さんが嬉しそうにしているのをみて、本当によかったなあって、心の底から、思ったんですよ。ねえ、わたし。神宮寺さんが幸せなこと以上に幸せなことなんてなにもないんだって、気付いちゃうくらい』
「…きみは、魔法使いか何かかい?いつもそうやって簡単に俺の欲しい言葉をくれるね。俺はなにもあげられていないのに」
知らないだろう、どれだけ自分がその言葉に救われているのか。知らないままでもいいのかもしれなかった。魔法は気付かないから魔法なのだ。気付いてしまっては、知ってしまっては。魔法が解けてしまうかもしれないから。優しい魔法使いがかけた、世界で一番優しい魔法。
携帯越しの声は暫く何かを考えるように黙っていたが、やがて目に見えない何かを掴むような声で告げた。神宮寺さん、それは違います。
『この間わたしが作曲した新曲。神宮寺さんの歌詞入りをさっき初めて聞いたんです。わたし思わず泣いてしまって。馬鹿みたいでしょ?自分が作った曲なのに…何が違うんだろうって考えたら、ああそうだ、神宮寺さんの言葉が、声があるからだって。理屈じゃなくて、神宮寺さんの声が、言葉が、そこにあるから、こんなにも心が揺れるんだって。わたしの音だけじゃ、心には届いても揺らすことも触れることも出来ない。神宮寺さんの声があるから。声に乗せられた言葉があるから、触れて揺らすことが出来るんです。ね、何もしてあげられないなんて嘘ですよ。わたしはこんなにも沢山のものを貰っているのに。わたしだけじゃ、わたし一人じゃ駄目だった。神宮寺さんがいるから、やっと完成出来る。魔法使いは何時だってあなただったの。ありがとうございます、わたしの音楽に命を吹き込んでくれて。――わたしの音楽は全て。あなたに出会うために、命を貰うために生まれてきたのです』
その瞬間、自分は本当に彼女のことが好きなのだと、息が詰まるような気持ちになった。うまく声が出せず、無理矢理吐き出した音は震えている。馬鹿みたいに泣きそうだった。もし此処が舞台でなかったら、涙の一つや二つ、零れていたのかもしれない。春歌、小さく呟いた声は今にも泣き出しそうに歪んでいる。知ってか知らずか、彼女――春歌は柔らかく笑って何も言わなかった。それが悔しかったから、喉の奥で嗚咽を殺し、平静を装って口を開く。
色々なものをなくしたけれど、大切なものは確かにまだ、ここにある。
「…春歌」
『はい』
「…行ってきます」
『……はい。行ってらっしゃい』
ぱちん、携帯を閉じるとお揃いのストラップがしゃらりと揺れた。始まりの音、祈るように閉じていた瞼を押し上げて世界を見据える。
「さあ、行こうか」
夢の咲く場所で、きみにもらった魔法を咲かせるために。


03
きみがくれた魔法にありったけの想いを乗せて言葉を紡ぐから。そこで見ていてね、聞いていてね、歌うよ!







明星はきみに似る






//有海 title.白群