※鷹介と月子が幼馴染み


good-bye my little girl



00
さみしいって気持ちをくれた人は、何時だって遠い。


01
いつも記憶の底に横たわっている思い出がある。それは時折鮮烈な色を伴って世界を塗り変えるのだ。
――あれは、夏の終わり。
「お母さんなんかだいっきらいっ!」
怒りに任せて開け放った扉が軋む音を背後に駆け出す。行く当てなどどこにもなかったけれど、取り敢えずあの居心地の悪い家から逃げ出せればそれでよかった。喧嘩の発端は些細なことだった筈なのだが、火照った頭では考えられない。
最後の悪あがきとばかりに声を張り上げる蝉の泣き声をBGMに、お気に入りの公園に逃げ込む。公園に備え付けられた小さな小屋のような場所に入ると、日陰のせいか外よりは若干冷えた空気が纏わり付いてきた。窓の役目を果たしているらしい楕円に視線を遣ると、日が暮れ始めているからなのか人一人見当たらない。断末魔の泣き声だけが月子に優しい。
「…お母さんの…ばか…わたし…悪くない…もん」
ぐすっと鼻を鳴らすと妙に大きく響いた。まるで世界から隔絶されたような気分になって、何だか淋しくなる。決死の逃避だった筈がこの様だ。馬鹿馬鹿しい、さっさと家に戻って謝ろう。頭の片隅では確かにそう考えているのに、根が生えたみたいに動くことができない。
――どうせ。誰もわたしなんか探しに来ない。お母さんに沢山酷いことを言った。用意してくれたオレンジジュースだって零してしまった。乱暴に開けたから、もしかしたら扉だって壊れているかもしれない。こんな乱暴でがさつな、癇癪持ちなわたしなんか。きっと誰も。
堂々巡りの思考は結局どう考えたって負の連鎖しか生まない。顔を膝に埋めると、仄かに夏の香がした。


どれくらいの間そうしていただろう。不意に小屋の扉が開いた。ほらやっぱり。此処にいた。声とは裏腹に肩で息をしている彼が、何時もと変わらぬ表情で笑う。背後で輝く満月が眩しい。
「よ、すけ…おにい…ちゃ」
「全く、何処に行くかくらい言っておけっての」
「だ、だって、わたし」
「うん?」
「ひどいこと、いっぱい」
どうやら無意識のうちに泣いていたらしい。嗚咽混じり、途切れ途切れにそれでも何とか伝えようと口を開く。彼、鷹介は最初から最後までただ黙って月子の話を聞いていた。
「お母さんに嫌われちゃったあ…っ!」
大きな掌が優しく頭を撫でたのから、思わず大きな声を上げてしまう。それでもやはり鷹介は何も言わないままで、漸く月子が何もかも吐き出した絶妙のタイミングに月子に向かって大きな掌を差し出した。何時もと変わらない、優しい笑顔を浮かべて。
「…帰ろっか、月子」
詰りもせず糾弾もせず。ただ一言なんでもなかったみたいに笑って。それが今の月子にとってどれだけ安堵を覚えるものなのか、鷹介は知らないんだろう。
――その時から。何があっても鷹介だけは絶対に大切にしようと誓った。こんなにも優しい掌を無条件でわたしに差し出してくれるひと。心地好い安堵を与えてくれるひと。絶対に絶対に大切にしよう。この心臓が拍動を止めるときまで。
ゆっくり握りかえした掌は、とても温かかった。


02
「月子、こっちこっち!」
指定された居酒屋に到着すると、既に相手は来ていたらしい。一番奥の周囲とは少しだけ離れた席に鷹介は座っていた。会社帰りなのだろう、くたびれたスーツが可愛い。
「仕事帰りか?」
「うん。お腹すいちゃったなー」
「お疲れ様。ほら、メニュー。何にする?」
「レバニラ炒めと生ビール。ジョッキで」
「おま…大人になったな…」
「レバニラ炒めの美味しいお店に行こうって言ったの、鷹介さんじゃない」
「まあなー。お、ビールきたぞ。乾杯乾杯」
涼やかな音が鼓膜を揺らす。彼の甘い髪色が視界の端を侵食していく。僅かに香る夏の匂いになんだかくらくらした。
がやがやと煩い店内で、他愛もない言葉を交わす。この空間は何もかも隠し通せるから好きだ。上気した頬も、高鳴る鼓動も。目の前の男はわたしのそんな変化にちっとも気付くことのないまま柔らかに笑っている。それが嬉しいのか、悲しいのか。もう分からなくなっていた。
「月子は綺麗になったよなあ」
酔いが回ってきたのかやけに上機嫌で目の前の男がいう。酔っていなければこれだけ嬉しい言葉もそうそうなかったのに、と嘆息して月子はジョッキに口をつけた。
「酔ってるね、鷹介さん」
「酔ってない、酔ってない」
「酔ってるひとは大抵そういうの!明日辛くても知らないんだからね、全く…」
「平気だよ、明日休みだし」
「……もう」
わしゃわしゃと大きな掌が頭を撫でた。彼の中で月子は何時までも子供のままだ。癇癪を起こして家を飛び出した、あの夏の日のまま。それがどうにも悔しい。何時までも子供扱いは嫌だった。幼馴染みではなくて、一人の女性として見てほしかった。けれど、同時に彼にとって一人の女性となることはこの安寧を破壊することも意味していた。彼が――鷹介が無条件に優しくて甘やかしてくれるのは、月子が幼馴染みだからだ。もしかしたら、幼馴染みでなければ傍にいることすら、許されなかったかもしれない。それを分かっているから、月子はあと一歩が踏み出せない。何もかも壊してしまえるほど、月子は強くない。
――それでも。
もう終わりにしなければ、とは、思っている。
「今日ね」
「…うん?」
「久しぶりに昔のことを思い出したの。わたしがプチ家出して、鷹介さんが迎えにきてくれたときのこと」
「ああ、そんなこともあったな」
「あの時はまだ右も左も何も分かってなくて迷惑ばっかりかけてて、ごめんね。迎えにきてくれた時、嬉しかったよ。誰も迎えになんかきてくれないって思ってたから」
鷹介は何も答えない。反応を探るように触れた掌は、あの日のまま。
周囲の人間から見て、わたしたちはどう見えているのか。幼馴染み?兄妹?――恋人?答えは何時だって出ない。


03
夜の公園の静かさが心地好い。前を歩く鷹介の後ろ姿があの日と重なって、ゆっくり瞼を下ろした。
変わらないままはきっと、幸せなのだ。同じままでいることは、優しい。優しいままのぬるま湯にたゆたい続けることは一番楽で、それを選びつづけていればもしかしたらずっと鷹介の傍にいられたのだろう。勿論、たった一人の幼馴染みとして。多分鷹介はそれを望んでいる。変わらないまま、幼馴染みのままずっと隣に並ぶことを選んだのだ。
それを満足出来ないと駄々をこねたのはわたしだった。幼馴染みでは嫌で、妹でも嫌で、彼にとってたった一人の女の子になりたかった。誰にも譲れない彼の左隣、心臓の一番近くに他でもないわたしがいたかったのだ。
「…月子は変わったよな。勿論いい意味で。俺なんかが隣に並んだらいけないくらい、綺麗になった」
「鷹介さん、酔ってるでしょう」
「………どっちでもいいよ。月子の、いい方で」
その声は、どこか泣いているようで。思わず掴んだスーツの裾を鷹介は払わなかった。
「…わたしは、」
「うん」
「わたしは、変わらないままで良かった。鷹介さんの傍にいられたら、良かったの。……最初はね。ずっとそう思ってた。でも、気付いちゃった。ずっとなんか傍にいられないって。わたしはあくまでも鷹介さんの幼馴染みでしかなくて、彼女でも何でもなくて、でもそれでもいいかなって今まで思えたのが分からないくらい、今は、わたし」
不意に鷹介が振り返った。暗くてその表情は見えなかったけれど、きっと笑っているのだろう。月子が一番好きな優しい顔で。
「お前には俺なんかよりずっとずっといい奴がいるよ。俺なんて頭もよくないし優しくないし。女の子にだらしないし、稼いでだっていないし。こんな最低で最悪などうしようもない男なんかより、もっと素敵な奴がいるよ。なんなら紹介したっていい。だから、そういう気持ちは忘れな。多分月子は、小さいときに感じた大人への憧れをそのまま持ってきたんだ。間違いを間違いだと思わないまま、これから生きていくのはつらいから」
――辛辣なことを言われている筈なのに。月子は全く苦しくも悲しくもならなかった。理由は簡単で、一見月子を何処までも突き放し遠ざけようとしている鷹介が一度だって月子のことを嫌いだとは、鬱陶しいとは言わなかったのだ。月子の知っている鷹介は、優しいけど容赦がないひとだった。嫌いなら嫌いとはっきり口にする。そんな鷹介が一度も月子のことを嫌いだとは言わなかった。好きじゃないとも、言わなかった。その意味を、月子はよく知っている。
「最低で最悪で、どうしようもなくても」
遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。きっとこれが最後の夏だ。
「それでもわたしは、あなたがよかった。どれだけ傷付けられても苦しめられても。わたしは鷹介さんがいいの」


蝉の声が聞こえる。あなたの返事は、ない。



04
きみの一生が百万回あればいいのに。そうしたらその内の一回くらい、わたしが貰ったっていいでしょ。ねえ、そうだと言ってよ。








//有海.一周年ありがとう。
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