during the night
(よるのうちに)



00
夜の海に行きたいと言い出したのは月子だった。


01
お待たせ、その言葉と同時に投げ渡されたヘルメットを器用に受け取って被ると、途端に言いようのない蒸し暑さに覆われた。暑い?窺うように呟かれた言葉に返答を返す代わりに頭を振ることで返答とした。ヘルメットで制限された視界では満足に星を眺めることも出来ない。けれどもその事実に妙に安堵した自分がいた。何よりも好きなものを自ら否定する矛盾。追い求めることを忘れてしまったのは一体何時からだったのか、思い出せる筈もない。腰に回した腕を片方解いて、空に翳す。闇夜に蕩ける体温。バイクが静かに出発した。
極力音を出さないように制限速度ぴったりのスピードでバイクは走る。向かうのはこの世の果てかそれとも終わりか、どちらも間違いだったが、今この時だけはどちらも正しいと思った。正しいと、思いたかった。
深夜の町並みはそれだけで特別に見える。眠りについたビルはあまりにも無機質で呼吸を止めてしまったのかと疑いそうになった。触れたら冷たいのだろうか、蒸し暑さの残る闇夜に蕩けそうになりながらそれでも必死に林立している建物を横目にバイクは進んでいく。波間に漂う静寂のように物音ひとつしないこの町は世界から置き去りにされてしまったかのよう。抱きしめる腕に力を込めると、気遣うような掌が撫でた。
「どうした?」
くぐもった声は、それでも正しく鼓膜を揺らす。何てことはないのに泣きそうになる。
「一樹さん、どうしてバイクにしたんですか?」
「、変か?」
「いえ、とても似合ってます。でも一樹さんなら真っ先に車の免許を取りそうだなあって思ってたから。バイクを選んだ理由、気になって」
「そりゃお前、月子とくっつけるからに決まってんだろ」
「…一樹さん、最低」
「じょ、冗談だよ冗談。まあ、でも特に理由はないんだよな。車の免許取る前にバイクも取っとくかーってくらいで」
「……そうですか」
「なんだよ、連れないな」
今この瞬間だけ。ヘルメットの存在を煩わしく思う。どうやったって一つになれないのに、拍車をかけてどうしようというのか。擦りつけた背中の体温はまだ、遠い。
「いいえ、とても一樹さんらしくて……素敵だと思います」
遠くに波の音が聞こえた。


02
さく、足の裏から聴こえてきた音に表情が緩むのが分かる。波の音の合間で紡がれる曲。紡ぐのは紛れも無く自分で、そこには誰の介入もない。このまま何処までも歩いていけるような気さえして、また一歩、歩みを進めれば、後ろから転ぶなよと声が掛かった。自分は何時だって彼にとっては庇護の対象。その優しさは自分だけに向けられたわけではないことを誰より分かっていた筈なのに、今この時だけは独り占めしたいと思ってしまう。あまりにも醜い独占欲。彼に知られなければいいと刹那、祈った。
「…で、今日はどうしたんだ?」
「……え?」
「いきなり夜の海が見たいだなんて。いや、俺も見たかったからいいんだけどな。ただ、お前がそんなこと言い出すなんて珍しいから」
「おかしいでしょうか」
「いいや。お前が真っ先に頼るのが俺だって知って、なんかゾクゾクする。良い意味で」
「意味分かりません」
ザザアン、ザザアンと寄せては返す夏の音に、わたしはただ身を委ねることしか出来ない。仰ぎ見た夜空に浮かぶのは満月か、夏には不釣り合いすぎる程柔らかな光が波間を照らす。
「…もう、夏ですね」
「……ああ」
「夏に、なっちゃうんですね」
「春の後は夏だからな。秋がきたらびっくりする。それはそれで楽しそうだが」
「…………夏なんかこなきゃいいんだ」
ザザアン、ザザアン。身を委ねることしか出来ないわたしに、一体何が出来るというんだろう。戸惑うように聞こえなくなった足音に思わず笑ってしまう。
夏なんかこなきゃいいんだ。世界は夏なんか忘れちゃえばいいんだ。そうすればきっと、わたし、まだ一人で立っていられた。
「…インターハイか」
囁かれた言葉、無意識に跳ねた肩に舌打ちしたくなる気持ちを覚える。一樹さんのそういうところ、きらいです。なんでも分かっちゃうところ。言えるはずもなかった言葉は海に消えた。
「夏なんかこなきゃいいんです。そうしたらわたしはまだ、一人で、立っていられたのに。苦しいのは、嫌いです。辛いのも、嫌いです。何だかずっと重くて堪らない。抱え込むって決めたのはわたしだったのに」
ばかみたいね。


03
足を海に浸す。熱を孕んだ足にはその冷たさが心地好い。足の裏のから伝わる、掠われるような感覚に身を委ねてしまいたくなった。このまま何も考えず遠くにいけたら、そんな出来もしないことを昨日からずっと考えている。
たった一人の女の子。誰より頑張っている、努力家の女の子。インターハイ女子の部では、たった一人で星月学園の名前を背負って戦う、女の子。どれも等しく正しくて、等しく正しくない。間違ってはいないし、この道を選んだのは自分だったからそこに後悔など存在しない――してはいけない。最高の道とは言えないまでも自分にとって最善の道を選択し続けてきた筈だから。
それでも時折。本当にこれ以外に選択肢はなかったのかと。そんなことを考えてしまう。
「……わたし、女神なんかじゃないのに」
世界を拒絶するように屈むと、余計に小さく見える気がした。寄せては返す波がスカートの裾を揺らす。
弓道部の女神なんて柄じゃないし、ましてや勝利の女神になんかなれやしない。どこにでもいるような、どこまでも平凡な女の子。以前まではそれだけでよかったのに、気付いたらわたしは女神でなければならなくなった。周囲に悪気がないのは分かっていたから、何も言うことが出来ずにいる。足元がぐらぐらと不安定で、いつの間にか呼吸の仕方すら忘れてしまった。だからなのか、隠しておきたい暗く澱んだ気持ちが表に出ようと喉の奥で暴れだす。助けてほしいなんて言えるわけがないんだ。
パシャン、音が聴こえたのは一瞬。包みこんでくるのは誰かの体温――嘘。誰かじゃない。こんなこと出来るのは、わたしが赦したのは世界でたった一人だけ。
「つきこ」
名前を呼ばれた。それだけで何も隠せなくなる。
「…頑張りたいの。わたし、もっともっと頑張りたいの。周りからそう思われてるからとかじゃなくて、自分の意思でもっともっと頑張りたいんです。でも、もう、どうすればいいのか分からない。今までどうやって頑張ってきたか、忘れちゃった」
こんなことを言ったって仕方がないとは分かっていた。けれども言わずにはいられなかった。助けてほしいわけでも、慰めてほしいわけでもない。ただ話を聞いてほしいだけ、あくまでどこまでも自分勝手な考え。それなのに彼は嫌な声一つ出さずにゆっくり髪を撫でた。
「…一緒に逃げるか。俺と」
鼓膜に直接囁かれた蕩けるように甘い声。けれどもそこに強制させるような響きはない。彼はいつも逃げ道を用意してくれる。優しい彼が用意してくれる優しい逃げ道。前しか向かない彼がそんなことを言うのは、わたしが決してその道を選ばないと知っているからだ。ずるいひと、呟いた言葉に彼は笑った。おう、知ってる。
「…わたし、頑張りたいです」
「おう」
「…頑張ります。もっと。そうしたら、漸く自分を認められる気がするから」
「…ああ。だけど、一緒に逃げようっていうのは嘘じゃないから。行きたいとこ、全部行こうな。それだけは、覚えていてくれると嬉しい」
「…はい」
海の薫りが世界を彩る。ともすれば縋りつくように抱きしめてくる腕の強さが、堪らなく愛おしかった。ザザアン、ザザアンと寄せては返す波がひたひたとスカートを侵食していく。つきこ、囁かれた声に少しだけ泣いた。


04
帰ろう、言い出したのはどちらが先だったのか。鼓膜を犯す夏の音に身を委ねることしか出来ないまま。



The day is breaking.
(夜が明けようとしている)







//有海.一周年ありがとう。
♪タワー/KEI
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