これは、ある日の記憶。

目の前に置かれた白紙のままのノートをぼんやりと眺めながら、アトリアは小さく溜息を吐いた。小さな掌で弄ぶのは主治医から処方された生命維持装置、もとい錠剤である。毎日朝昼晩三回、この錠剤を飲まなければアトリアは通常の生活を送れない。飲まなくても死ぬことは多分ないのだろうけれど、服用しなかった時の主治医の泣き出しそうな、それを全て押し込んで眉を寄せるあの表情に滅法弱かったから、服用しないという選択肢は最初から用意されていなかった。
それに、きっと。
――大切なあのこも悲しませる結果になるだろうから。
自分が傷付くだけなら、まだ耐えられるのに、とアトリアは自嘲気味に笑って一思いに薬を飲み込む。舌の上に広がる微かな苦味に思わず眉を顰めた。薬は嫌いだ。自分が弱い人間だと知らしめされそうで。
「お嬢様、入ります」
「ええ、どうぞ。――一体何時になったら貴女はわたしを名前で呼んでくれるのかしら。ねぇ、スピカ」
名前を呼ばれた亜麻色の髪を持つ少女は困ったように一度小首傾げて、それから、さあ何時でしょうと笑った。
「名前で呼ばせて戴くなんて恐れ多いですよ」
「あら、じゃあわたしもスピカって呼ぶのやめちゃおうかしら」
「……それは困ります。わたしはお嬢様に貰った名前しか持っていないのに」
「本名があるじゃない」
スピカ、という名前は彼女の本名ではない。アトリアが彼女を拾ったその時に付けた、苟且の名前だ。南極光と呼ばれる自分と近しくなるように付けた、真珠星と呼ばれるその呼び名を、スピカはいたく気に入ったらしく本名は棄てたなど宣う始末である。現に今だって、ほら。
「わたしの本名は後にも先にもお嬢様が付けてくださったスピカという名前一つきりです。それ以外にはありません」
「……スピカ」
「わたしは、それ以外の名前など必要ではないのです。それだけあれば、十分なのです」
名前を呼んで下さるのも、お嬢様だけで。
静寂が満ち溢れるこの部屋でその小さな呟きは予想外に大きく響く。アトリアはどんな表情をしていいのか分からないまま曖昧に笑った。
スピカになる以前の彼女のことをアトリアはよく知らない。とある界隈では名の知れたちょっとした怪盗だとは聞いたことがあったが、真偽の程は分からない。けれども、悪戯半分に父親の書斎にある日記帳を盗んで来てほしいと頼んだら、翌日あっさりと手渡されたのだから多分真実なんだろう。その時使った「わたしだけの怪盗さん」というフレーズをどうやらスピカは気に入ったらしかった、アトリアがままごとのような依頼をする度に嬉しそうにそのフレーズを口にする。止めなければと頭のどこかでは分かっているのに、スピカの楽しそうな笑顔を見る度、妥協してしまう自分がいた。
「……そういえば」
スピカの白い指先がアトリアの胸に滑る。そこにあるのは数多の星を集めて圧縮したような輝きを放つ宝石をあしらったネックレスだった。三年前に誕生日プレゼントとして父から戴いたネックレス。あしらわれた宝石はTEARS OF POLESTARと呼ばれるらしい。
「これが噂のTEARS OF POLESTAR…」
「そんなに有名なの?」
「はい。手にした者の願いを何でも叶えてくれるって言われているんですよ」
「あら、そうなの。知らなかったわ…やっぱり怪盗としては、これ、盗んでみたいかしら?相当価値があるものなんでしょう」
悪戯っぽく笑って告げれば、スピカは困ったように一度笑ってから確かに欲しいですけどと答えた。でもそれはお嬢様によく似合っていますから、盗もうなんて思いませんよ。
「なんだー。つまらない」
「もう。盗んでほしいんですか?」
「…そうね、わたしは、」
もしかしたら、わたしは。
わたしには不可能なことを次々とやってのける彼女をずっと見ていたいのかもしれなかった。彼女を通して経験する何もかものことが、万華鏡のようにキラキラと輝いて鮮やかだったから。
(わたしなんかより)
盗んで欲しいわけではなかった、けれども、この宝石はきっと彼女にこそ似合うのではないかとそう思うのだ。
「わたしは…貴女に名前で呼んでもらいたいわ」
「ま、またそれですかお嬢様…!」
「呼んでくれなきゃスピカのこと嫌いになる」
「それは嫌です!」
「じゃあ呼んでくれるのよね?」
「……う…」
「スピカ」
「…………はい、アトリア」


ねえ、いつか終わる時がきても。
貴女だけは幸せでいてくれたらいいと思うわ。
そんなこと言ったら貴女は怒るかしら、きっと怒るでしょうね。






//有海
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