その日は朝から全くついていなかった。やっとのことで(二日間徹夜した)提出した企画書はよく分からない難癖を付けられて再提出。楽しみにしていた特別定食は目の前で売り切れ、携帯は同僚が倒した珈琲に水没し再起不能。極めつけが現在眼前のパソコンに浮かび上がっている書きかけ書類だ。苦心惨憺し何とか書き上げたその書類は、保存する前に新人の女の子が躓いた際に誤ってパソコンのコンセントを抜いてしまった為全てが水の泡になってしまった。幸いと言うべきは骨組みの下書きだけは保存してあったことくらいか。疾うに冷めてしまった珈琲を啜りながら本日何度目になるか分からない溜息を吐く。薄情な同僚たちは既に帰宅してしまって、何時もなら賑やかなオフィスは静まり返っていた。時計を見上げれば現在23時45分。今夜は泊まり込み確定に違いない。
「……時計を見つめてたって時間は戻らないですよ、宮地さん」
「分かってるってば。時間が巻き戻せるなら俺はちゃんと小まめに保存する」
「またそうやって拗ねる…」
「拗ねてないッ!」
からかうように声を掛けてきたのは鷹介の部下である月子である。悔しいことにとても有能な彼女は、本来ならばとっくに帰宅している時間だ。それなのに何故この場にいるのか。鷹介は確かに家に帰っていいと告げた筈なのだ。夜久、躊躇いがちに掛けた声は彼女の耳には届かなかったらしい、珈琲を淹れてきますねと言って事務所から消えた。
月子に初めて出会ったのは、実は入社日のことではない。今から七年前、まだ月子が高校二年生だった頃の話だ。どんな運命の巡り合わせか、弟と同じ高校同じ部活だった彼女が他の部員と共に我が家を訪ねてきた。光を孕んだ亜麻色の髪を靡かせ、お邪魔しますと笑ったその表情を鷹介はまだ鮮明に思い出せる。
(とても、とても幸せそうな表情で笑うのが印象的な女の子だった。)


――その表情を見た時、鷹介は気付いてしまった。その笑顔の裏に潜む本当の理由を。視線の先に誰がいるのかを。

そうしてそれは、今も、変わらない。


涙のような、恋をしている。叶う日はきっとこない、どんなものよりも果敢無く脆い薄氷のような恋だ。誰にも言うことが出来ない、苦しいだけの、淋しいだけ、の。鷹介がそれを自覚したのは何時だっただろう。彼女を初めて家まで送って行った時か。彼女が使い分ける呼び名の意味に気付いてしまった時か。けれども思い出せないのか思い出したくないのか当の鷹介自身にもさっぱり分からなかった。分からなくても良いのかもしれない、余計苦しくなるだけなら。
諦めてしまえばいいと思ったことは何度もある。すっぱり諦めて想いを忘れてしまえば楽になれると何度思ったのか分からない。――あんな、弟にずうっと叶わない恋心を抱いているような女の子なんか。それでも、諦められないのは、
「…宮地さん?」
呼び掛けられた名前に飛び跳ねた心臓を何とか落ち着かせて鷹介は振り返った。長く考え込んでいたらしい、月子の手には似たような色をしたマグカップが二つ、握られている。
「宮地さんはブラックでいいんですよね?」
「うん。って月子ちゃん、きみのそれ、最早珈琲じゃないって」
「だってこれカフェオレですもん」
「カフェオレのストックそれが最後じゃなかったっけ」
「………最初からなかったことにしてください」
バツが悪そうに月子はそう言ってそっぽを向いた。子供じみたその仕種が何だか可笑しくて、思わず笑ってしまう。ずっとこのままでいられたならよかった。進むことも戻ることもなくただ停滞し続けていられたならば。
「月子ちゃん、もう帰りなよ。タクシー代なら出すからさ」
「え、でも宮地さんは残るんですよね?」
「この資料作り直さなきゃいけないからね」
「じゃあわたしも残ります」
「……月子ちゃんはやっさしいなあ。他の奴はあっさり俺を見捨てたっていうのに」
「たとえ他の誰が宮地さんを見捨てても。わたしは宮地さんを見捨てませんよ。だってわたしの尊敬する上司ですから!」
「は、」

――本当に、それだけ?

なんて、言える筈もなかった。(馬鹿みたいにお人好しで、綺麗な、俺の弟をずっとずうっと好きな、この女の子は、)


今日もまた一つ、彼女のことを好きになる。それでも好きになる度、どうしようもない虚無感に苛まれるのだ。






//有海
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