次は何時会えるの?

背後から聞こえてきた声にけれども仲間からはベテルギウスという名前で呼ばれる男は黙ったまま何も言わなかった。ざあざあと降りしきる雨の音が耳の奥を侵食していく。いっそ女の声もこのまま消えてしまえばいいのに、思ったのは確かに嘘じゃなかった。
未だに今度は、と壊れたラジオのように何度も何度も同じ言葉を繰り返す女を軽やかに無視して玄関の扉を開く。この季節にしては冷たい風と全てを覆い尽くすような雨音が全身を包んだ。必要な情報は揃った。仕事はもう終わりだ、早く根城としているあの部屋に帰ってゆっくりしたい。脳裏に浮かんだのは取り立てて何が置いてあるわけではない寒々とした自分の部屋と――亜麻色の髪の。
もう会うこともねえよ、雨音に紛れてしまう程小さな音量で呟いて一歩を踏み出せばぎしりと今では珍しくなった木の床が頼りなく鳴いた。
「   !」

嗚呼、もうその名前を使うこともないな。


◆◇◆



がちゃり、無造作に開いた扉の向こうで亜麻色の髪の女がソファに寝そべっていた。付けられているテレビからは最新なんだかそうじゃないんだかよくわからない情報が垂れ流されている。視線はそちらを向いていなかったから、恐らくBGMにしているだけなんだろう。仲間内からは敬愛の情を持ってスピカと呼ばれている彼女は、ベテルギウスの姿を認めると、おかえりなさいと軽やかに笑って手を振った。真新しい包帯が目に鮮やかだ。
「おいおいおい。何かやらかしたのか?」
「へ?」
「包帯。酷いのか」
「ああ、これ。全然平気。窓の鍵開けの時にちょっとやらかしちゃって。ただそれだけ」
「それだけっておま」
意識していないのにまるで壊れ物を扱うかのように慎重な手つきで、そっと手首に触れる。ふわり、香るのは恐らく包帯の下に隠された湿布の香りなのだろう。その手つきが可笑しかったのか、スピカはくすくすと柔らかく笑った。
「む、ベテルギウス。女の人の匂いがする」
「お前は犬か。任務だって知ってただろ」
「うん、知ってる。だってお願いしたの、わたしだもん。お仕事お疲れ様。うまくいった?」
「俺を誰だと思ってるんだ。FMSが誇るベテルギウス様だぞ」
戯けたように紡がれた言葉に、スピカは一瞬だけ何だか悲しそうな顔をして――それからそっか、と微笑む。
(一体、どこに反応した?)
その疑問はすぐに明らかになった。
「オリオン座の星の、ベテルギウス。爆発して消えちゃうかもしれないんだって。さっきニュースの特番でやってたの。ねえ、ベテルギウス。ベテルギウスは」
何でもない、そんな声音とは裏腹にスピカは痛みを堪えるような顔をした。延々と垂れ流されているニュース番組を見つめる眸は焦点が定まっていない。
ベテルギウスという名前は、勿論本名ではない。彼が此処、伝説の怪盗カノープスが率いる集団であるFMSに所属することになったその日に付けられたコードネームだ。本名はリーダーであるカノープス以外誰も知らないし、ベテルギウス自身誰かに教えるつもりなどなかった。そう、それが例えスピカであっても。
(まあ俺もスピカの本名を知らないわけだが)
時々、思うのだ。スピカは優しすぎる。敵であっても傷付いた誰かを見るとひどく悲しそうな顔をするし、仲間が傷付こうものならそれこそ自分が傷付けられたとでもいうような、そんな顔をする。それがスピカの美点の一つだとは思うが、組織でやっていくには不要な感情だ。組織とは徹底して合理的であるべきで、使えないものは排除すべきである(、と少なくともベテルギウスはそう思っている)。
だからもしここでニュースは何ら関係ないとしても自分が組織から消えなければならないことになったら、ベテルギウスは潔く組織を去る決意を既に決めている。それこそが組織にとって一番有益だと知っているからだ。
(ただ、)

この眼前で泣き出しそうな顔で笑っている女を救えるなら。星の名前に誰かを重ねて心を痛める優しすぎる女を救ってやれるなら。――建前も何もかも棄ててしまえるなら。
「ばか、勝手に人を殺すなよ」
「誰もそこまで言ってないよ!」
「いーや、言ったね。お前は確かに言った」
「だから言ってないッ!」
「………少なくとも。俺は何処かに行ったりしないって。FMSには俺の力が必要だろ?」
「…うん」
「それにベテルギウスはコードネームじゃん。本名じゃねえっての」
「そう、だね。そう。コードネームだもんね」
スピカは何度か同じ言葉を繰り返して、何かを確かめるように一度だけ瞼を下ろし――小さな声でありがとう、ごめんねと呟いた。最後に掠れた声で紡がれた言葉を、ベテルギウスは敢えて知らないふりをする。
いつか彼女に本名を教える日が来るのだろうか。コードネームではない、本当の名が彼女の柔らかい声で呼ばれるのを想像して、ベテルギウスはスピカにばれないように笑う。


――それも案外悪くない。





亡骸はひとつでたりますか






//有海
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