受話器を取ったのは翼だった。翼の背後では月子が不安そうに一挙一動を見守っている。この家の電話は滅多に鳴らない。月子がやって来てからまだ一度も鳴ったことがなかったのだ。それが今日になって突然鳴り響いたのである。警戒するなというほうが到底無理な話だ。恐る恐る耳に押し当てた受話器から聞こえてきたのは、見知った男の、どこか焦ったような声だった。
『翼か!?』
「ぬ、ぬいぬい?!どうしたんだ!?」
電話の主は幼い頃から付き合いのある、王宮仕えの男のものだった。確か今はその腕を買われて王宮護衛団団長を勤めている筈である。(王宮護衛、団?)嫌な予感がした。凍てついた掌で心臓をわしづかみにされたような恐怖。受話器を持つ手が最悪の事態を予想して震える。目の前が霞み始めた。(逃げなければ)脳裏に浮かぶのはその六文字だけだ。
『いいか翼。落ち着いて聞けよ。【清明】の所在地が他の奴らにばれた』
「そんな、何で、」
『わかんねぇ。だが今はそこを気にしてる場合じゃない。いいか今すぐその家を離れろ。じゃないと、』
(たったひとつを殺せば)
『殺されるぞ』
男――一樹の声がやけに遠くに聞こえる。今まで何もなかった。だからこれからも何も起こらないと思っていた。何も起こらず、月子はずっと隣で笑っていて、翼が春を呼び寄せる道具を完成させ、やがて春が来て――そんな未来があると無条件に信じきっていた。未来の保証や確証など何処にもありやしないのに。
【清明】。それはこの世界に春を呼び寄せる存在の名だ。留め具と言っても過言ではない。低い確率で何十年かに一度生まれ落ちるのだという、その名を冠した人間を、何時からだったか誰かがこう言い始めたのだ。この世界に春が来ないのは【清明】が居るからである。【清明】という存在が春の訪れを妨げている。ならば殺さねばならぬ。たったひとつを殺せば、この世界にも春は訪れるのだ――正常な状態であったなら誰も信じなかったであろう、ただ長年の疲労が人々の心を狂わせた。【清明】を殺せば春はやって来る。そう信じなければやっていけなかったのだ。そしてその【清明】は――。
「ぬいぬい、逃げるって言ったって、何処へ」
『俺のとこまで来れるか?俺や颯斗が迎えに行くことができたらいいんだが、他の奴らを足止めするだけで手一杯な状態なんだ。お前たちがこっちに来てくれたら、俺がお前たちを守ってやれる』
「…それは、絶対?」
『ああ。星に誓っても良い』
「…分かった。どちらにしろぬいぬいを頼ろうと思ってたから。ぬぬぬ、だけど困ったなあ。どうしてばれたんだろう」
それから二言三言言葉を交わして翼は受話器を置く。振り向けば月子は静かに微笑んでいた。翼の発する声から大まかな事態を把握したのだろう。波立っていた心が落ち着いていくのが分かる。現金なものだ、と小さく翼は笑った。月子と出会ってから翼は変わった。それが良いことなのか悪いことなのか、誰にも分からなかったけれど。
窓の外に目を遣る。相も変わらず音もなく雪が降り続いている。何処までも変わらない白が、孤独の具現化が。この雪が止み、いつか暖かい陽射しが降り注ぐようになるのだろうか――その時隣に居るのが月子であればと強く願う。
「月子、俺と一緒に逃げてくれる?」
差し出した左手を、月子は躊躇なく握り締めた。温かい、生の体温。
「行くよ。何処へでも行く。翼くんと一緒なら」











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