彼女の口から零れ落ちた名前を聞いた瞬間、呼吸が止まった気がした。命に替えても守らなければならないと思った。そう思ってしまう程、何故だか悪い予感がしたのだ。もう手遅れになった過ちを、目の前に突き付けられたような。(あの人は悪くないんじゃ。それなのに人々は寄ってたかってあの人を悪者にする。翼は、信じてあげるんじゃよ)悟られないように息を吐き、何気なさを装って応える。掴んだ頼りない細い小さな指先を、手離すことがあってはならないと、強く思った。(たったひとつを殺せば春が訪れる、なんて、間違ってる)
「……月子?」
少しばかり休憩しようとラボを出る。外の雪が音を吸収しているのか、家の中は大抵静かだ。すべての音がなくなったような、妙な錯覚を引き起こしそうになって、翼は月子の姿を探す。当の月子は黙って窓の外にこんこんと降り続ける天の涙を見つめていた。雪のように白いその指先がつぅっと窓ガラスをなぞる。(たったひとつを殺せば、)窓に映った顔はなんだか、泣き出したいのを、一所懸命堪えているようだった。
「月子?どうかしたのか?」
「…つばさ、くん」
声は何時もと同じなのに、声を包み込む温度が、泣き出しそうなそれと同じだった。翼は月子が発するその声が大層苦手だ。どうしたらいいのか分からなくなる。ずっと一人だったから、翼は誰かの慰め片を知らない。どうやったら相手を笑わせることができるのかを、知らない。今まで必要なかったからだ。そしてこれからも必要がないと思っていたからだ。しかし今は違う。月子がいる。月子の笑顔が好きだ。ずっとずっと笑っていて欲しいと思う。願わくば翼が月子を笑わせてあげられればとすら、思う。泣き顔は嫌いだ。どうしたらいいのか分からなくなるし、月子が泣くと胸が引き裂かれるように痛むから。
「…大丈夫だよ、春は来る。月子が心配することはなあんにもないんだ。俺は此処にいて、何処にも行かない。月子を置いて死んだりしないよ」
「…翼くん、わたしね、なあんにも心配してないんだ。だって翼くんがいるもの。翼くんが居てくれるからわたし、」
そこで一旦言葉を区切る。月子は暫く黙り、少し笑ってから翼に向けていた視線を窓の外に向けた。こんこんと雪は止まることをなく降り続ける。一体いつからこの雪が降り始めたのか、今ではもう知るものはいない。冬という季節以外を知らず、一面の雪景色以外の景色を知らずに老いて死んでいく人間すら少なくない。かく言う翼も冬以外の季節を知らない。雪景色以外の景色を知らない。春に咲き乱れる薄桃色をした桜という花も、夏に太陽に向かって咲くという眩しい黄色をしているという向日葵も、秋になると燃えるように紅く染まるという紅葉も、何一つ知らないのだ。それは傍らで笑う月子も同じだった。
「雪って淋しいね。白って孤独だから、雪は孤独の具現化のような気がするの。なら孤独で覆われたこの世界はなんなんだろうって。この世界は神様の箱庭から外されて、埃を被ってるんじゃないのかなって」
「…月子?」
「ならまた春がきたら、この世界は神様に愛されるかな」
翼には月子が何を言っているのか分からなかった。けれど、ゆるゆると触れた指先の体温は確かに本物であったから、 それでいいのだと結論づける。月子の言葉に続けようと思った瞬間だった。
(たったひとつを殺せば春は訪れる)
滅多になることのない電話が静かに鳴った。







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