――ゆめを、みている。



せんせい。せんせい。残響。谺するのは誰の声か。忘れたいのに忘れたくなかった。せんせい。甘やかな毒を孕んだのは、誰の、声。せんせい。せんせい。あのね。


「――せんせい!」
緩やかな振動で目が醒める。視線だけをそちらに向ければ、光を宿した亜麻色が飛び込んでくる。透き通ったその色は、失ったあの頃にとてもよく似ていた。
「……俺はまた、寝ていたのか」
口から洩れ出した音は予想外に掠れていた。そのためなのか、空気に混じり合うことなくざらりとした質感を保ったまま宙に浮かんでいる。眼前の少女は気付いていないのか、矢鱈嬉しそうな笑顔で何かを告げてくる。けれどもその声は、激しいノイズ音に掻き消されて純白に消えた。訝し気に眉を顰めると少女は戸惑ったように小首を傾げた。どうかしましたか、せんせい。
「――いや、」
砂嵐のようなノイズ音。少女の声。窓から入ってきた風がふわりとカーテンを揺らす。時折聴こえる、せんせい。の四文字だけがやけに色鮮やかだ。
「――――、」
名前を呼ぼうとして、洩れ出したのは何とも不格好な空気の羅列だった。はて、彼女の名前は何だっただろうか。確かとても綺麗な名前だった筈なのだ。相変わらず砂嵐を吐き続ける少女をぼんやりと眺めながら、そこかしこに散らばる名前という欠片を懸命に拾い集めようとしてみる。欠片を集める作業はどこか闇を泳ぐ行為によく似ているだなんて思いながら――そこまで考えて突如浮かんだある結論に愕然とした。

どうして、自分は。彼女の名前を。忘れている?

せんせい。


不意に砂嵐が止んだ。少女が呼ぶ四文字はこんなにも鮮やかなのに。
「せんせい、むりにね、おもいださなくても、いいんですよ」
「なんの、話だ」
「わすれたいならわすれてくれたってかまわないんです。わたし、いったでしょう。せんせいの、こころのかたすみにのこりたいのは、たしかにうそじゃなかった。でもそれは、せんせいをくるしめてまでなしとげたいものじゃあ、ないんです。わすれてくれて、いいんですよ。もう、おもいださなくても、いいんですよ。――だってわたしじゃ、せんせいの名前をよべない」
名前、その三文字だけがやけに大きく響く。砂嵐が止んだ雪の居場所はこんなにも静かだ。独りなのだなあ、と思う。ひとりには慣れた筈だったのに、どうしてこんなにかなしいんだろう。どうして彼女の声はこんなに、淋しいんだろう。出来ることなら抱きしめてみたかった。その華奢な体を抱きしめて、透き通った亜麻色に口づけてみたかった。けれども、彼女の名前を思い出せない自分にはその資格なんてものなど、どこにもないような気がした。
「せんせい」
「……、」
「せんせい。はるがきてなつがきて、あきがきてふゆがきて。あとなんかいきせつがめぐったら。せんせいはしあわせになってくれますか。わたしはいつも、そればかりを、かんがえています」
「――お前の名前を思い出せたら」
その一言を告げた時、彼女はひどく悲しそうなかおをした。今にも泣き出しそうな、そんなかおだった。
「とてもかなしい、こいを、していますね」
「おい、」
「はるがきてなつがきて。あきがきてふゆがきて。ううん、そんなことかぞえなくたって。せんせいの名前をよんでくれるひとがあらわれることだけを、ねがっています。ほかにはなにもいらないから、それだけがかなえばいいのにと、ずっとずうっと、おもっています。せんせいの名前が、ただそれだけを」
「………っ、つき、」
「せんせい」
「、」
「もうここにきちゃ、だめですよ。かえらなきゃ、だめですよ。せんせいの名前をよんでくれるひとがいる、ばしょにかえらなきゃ、だめですよ。いいですか。せんせい、ほうら、かえりますよ。かえりみちはあっちです。せなかをね、おしていますから。かえらなきゃ、だめですよ」
「俺は、此処でいいんだ、此処で、いいんだよ」
「だめです」
「どうして」
「だって、」




「だって、ここはとても、さむいから」




――ゆめを、みていた。



窓から入ってきた風がふわりと空色を揺らす。いくら耳を澄ましても、もう砂嵐は聞こえない。それだけがひどく苦しいもののように思えた。
「ゆめ、か」
彼女の名前を今なら思い出せる。今なら、呼べる。名前が呼べないといった少女の代わりにいくらでも自分が名前を呼んであげたかった。いや、名前など呼ばれなくたってよかったのだ。彼女が其処にいる、それ以外に重要なことなど何一つなかった。それでも名前を呼ばないのは、もう何処にも彼女がいないと分かっているからなのかも、しれなかった。

せんせい。


彼女が卒業してからもう五年になる。未だに彼女の名前を呼んでしまう自分を、誰か笑ってほしい。



//有海
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