窓ガラスから差し込む飴色の光が、床を淡く光らせている。空に広がる夕焼けが、濃淡の強い影を生み出していた。
この空間に一人でいることのほうが珍しいと気付いたのはつい最近のことだ。本来ならば一人である筈のこの空間に誰かが居る、その状況にいつの間に慣れてしまったのだろう。(先生、)耳朶を震わすあの優しい声に、いつの間に慣れてしまったのだろう。(先生、お茶飲みますか?)誰かの声が、誰かの言葉が、耳の奥に残って消えないだなんて、そんなこと今までなかったのに。
外からは楽しそうに汗を流す生徒たちの声が聴こえてくる。その声に混じって微かに聴こえる飛行機のエンジン音。そういえば彼女の手を離したその時も微かな飛行機のエンジン音が聴こえていた様な気がした。今となってはあまりに遠い、昔の話だ。忘れたいと思いながら、忘れたくないと願っている、昔の話だ。
この学園から彼女の存在がなくなって、もうどれくらいになるだろう。幾度となく巡ったであろう季節を数えてみようとしたけれど、あまりに無意味なもののような気がして途中で止める。どんなに数えた所で彼女のいたあの季節は戻ってくる筈もない。(なかなかに未練がましい男だったんだな、俺は)ふぅ、静かに吐いた溜息を拾う人間はこの場にはいない。一人で在ることに慣れた筈の、一人で生きていこうと思っている筈の自分にはなんてことはないだろうその音が、やけに耳に留まり、昔は確かに在った筈の、その音を拾う存在を思い出しそうになる。忘れろ(忘れたくない)、忘れろ(忘れたくない)、何時だって思考は堂々巡りだ。
「失礼します、」
不意に聞こえてきた声に振り向くと、現在の保健係である女生徒が手に書類を持って入って来るところだった。この何年かで女子生徒の数もうんと増えた。それでもあまり多いとは言えないが、漸く共学と呼べるまでには。
この女生徒は頭の回転が早く、様々なことに良く気が付く。仕事の手際だって良いし、誰に対しても分け隔てなく優しい。
――そして恐らく自分に好意を抱いている。
何だかあの頃の様だと思ってしまうのは仕方のないことに違いない(それでも彼女はアイツではない)。
「先生、また散らかして。いい加減片付けて下さい……私も手伝いますから」
その声が、その言葉が、ある日の彼女のそれと重なる。窓から差し込む眩しい程の陽射しが、白いこの部屋を更に白く染め上げていた。(私も手伝いますから、)その声に自分は一体どの様に返事をしたのだったか、どうしても思い出せない。眩しい程の陽射しの中、伸びる雪の様に白い手足と亜麻色の髪、困った様に笑ったその顔(それは思い出せるのに、)
「……いや、いいよ。これでも合理的に散らかしてるんだぞ?」
「そう、ですか」
女生徒は少しだけ傷付いた風情で笑ってから書類を手渡してくる。そして一分も経たず出て行ってしまった。
部屋くらい片付けさせればいいのに、どうしてそれをさせないのか。この部屋が片付くならそれでいいではないか、自分で余計なことを遣らずに済むのだから。それなのに、どうして、
(先生がいらっしゃらなかったから片付けておきました)
もしかしたら、今まで自分がこの部屋を誰かに片付けさせなかったのは。
彼女の残滓を消したくなかったからなのかもしれないと。
――そう、気が付いた。
(自分も大概、)
とうに冷めてしまった、愛用のマグカップに注がれたお茶を啜る。喉を滑り落ちるのは苦味のない、どこにでもあるような普通のお茶だ。決して不味いわけではないその味を、物足りなく感じてしまうのは何故だろう、その原因が分からないとは言えない程度に自分は大人だった。昔、彼女が愛用していた薄桃色をしたマグカップは、まだ静かに棚の中で呼吸をしている。もう使われる日など二度と来ないというのに。
(嗚呼、これが、寂しいと、)
この虚無感を淋しいと形容するのだと漸く気付いたのは。
――彼女が煎れるあの強い苦味の残る茶の味が。
この舌先から消えた頃だった。





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