赤い世界が全てを支配して大切なものも愛しいものもこの掌から零れていく、掬っても掬っても受け止めるための器を見失ってしまった自分にはもう、彼女の手を取ることもその涙を拭うこともその笑顔を護ることも何一つ赦されていなかった。彼を殺せない。たとえ偽りでも虚像でも、彼は間違いなく友人であったから、鬱陶しくても信用できない部分があったとしても、彼は間違いなく。嗚呼、でも、独りにしたくなんてなかった。彼女は頑固で意地っ張りで一度決めたら決して譲らなくて、そして、泣き虫だから。ありったけの力を振り絞って今にもはりつこうとしている瞼を抉じ開ける。見えたのはやっぱり、今にも泣き出しそうな彼女の、優しい表情だった。
ふと思い出すのは旅の途中、他愛もない話だ。木から落ちてしまった鳥の雛を彼女は懸命に巣へ戻そうとしていた。結局発見が遅かったからなのか、雛は天へと還ってしまったのだが、その脆弱さにひどく恐怖したのを覚えている。自分は天界の人間でそう簡単に命を落とすことはない。だが彼女は違う。自分とは違う。ほんの些細なことで簡単にいなくなってしまう。心臓が音を刻むのを諦め、息がとまり、瞼が開くなってしまう。己が傷付くよりも世界を救えないことよりも彼女を失ってしまうことの方が何倍もいや何千倍も恐ろしかった。
彼女は知らない。どれだけ自分が彼女の手を取れなくなることを恐れているのか。その声が聞こえなくなるのを恐れているのか。彼女は知らない。知らないままでいいと思う。いつか置いていかれるのなら、少しでも別離の痛みを覚えないようにしたい。それはいたって簡単な己のどうしようもない我儘であることくらいにはもうとっくに気が付いていたのだけれど。
『どうしました?悟空』
彼女の声が、優しい声が脳裏を反復する。それは目の前にいる彼女から発せられたものではないことを自分は知っている。だって彼女は今泣いているのだから。どうせなら彼女の口から、なんでもいい、声を聞きたかったのだけれどそれももう叶いそうにない。彼女は泣き虫だから、その涙を止める理由が自分であれば良かったのに、泣かせていては世話ない。ただ、こんなことを自分が思っていると知ったなら彼女は怒るだろうか。たとえば、
(たとえば、置いていかれなくてよかった、とか)
意識が混濁する。彼女の声が聞こえなくなる。愛しい彼女の姿が見えなくなる。まだ、ごめんなさいも××××××もさようならも何も告げていない。口を開こうにももう、そんな力も残っていない。約束、守れなくて、ごめん。胸の内で小さく呟いたこの言葉が、彼女に届けばいい。
お前の泣き顔を見たらどうしたらいいか分からなくなる。だから笑っていて欲しい。我儘だと罵られてもいい。怒ってもいいから、どうか最後に一度だけ、もう一度だけ、笑ってくれないか。胸の内でひそやかに呟いたこの言葉が、はらはらと涙をこぼし続ける彼女に届けばいい。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -