手を放そうと決めたのは自分だった。泣かせたくないと思ったのも、幸せにしたいと思ったのも、ずっと傍に在りたいと思ったのも自分だった。ただ、彼女の傍に在りたいと思うには少しだけ、そう、少しだけ、自分と彼女の立ち位置が異なっていたから、その手を取るには少しだけ、不都合だったのだ。
「蘇芳?どうかしたのですか?」
そんな傍から見れば他愛もないことを考えていれば、心配そうに眉を寄せてこちらを見つめる玄奘の視線とかち合う。この優しい子を、誰よりも優しい子を護りたい。それと同時に今まで過ごしてきたあの世界、冥界と呼ばれる世界も護りたい。どちらかを取れば他方が立たないことは分かっていた。そうして選択の時が迫っていることも分かっていた。自分がどちらを取るのかも、最初から分かっていた。恋に生きて愛した人だけを護って生きていくことができたらきっとそれは何よりも素晴らしいんだろう。でも、そうやって生きていくには、自分は大切な物を持ちすぎていた。玄奘が大切だ、無くしたくない、失いたくない、手放したくない、今のままずっとずっと二人でいられたら、でも、分かっていた。そんなこと自分には出来やしないのだということくらいは。
「俺、玄奘が大切だよ」
「な、いきなり何を言って…!!」
最初はただ、自分の目的の為に利用しようと考えていただけだった。本当にそれだけの存在だった。それなのに気付けば何よりも誰よりも大切で愛おしくて涙が出るくらいの存在になっていた。こんな筈じゃなかったのにと何度自問自答を繰り返したことだろう。出逢わなければ良かっただなんて思わない、けれど、出逢いたくなんてなかった。もし出逢っていなかったら、ここまで揺らがなかったのだ、きっと。何時までも冥界のことだけを考えている蘇芳でいられた。今は、冥界だけを考えている蘇芳ではいられない。出逢ってしまったから、狂おしいほどに愛してしまったから、もう、前の自分には戻れない。でもそれが全く厭に感じないのは、多分、相手が玄奘だから。
「本当に大切で、ねぇ、俺の気持ち、伝わってる?」
抱きしめた体は柔らかくて、嗚呼どうして性別が違うというだけでこんなにも異なってしまうんだろう。でも、玄奘が女じゃなかったらこんな風にはなれなかった。人々は実を食べて男女という壁を作った最初の二人を、その実を、原罪と呼ぶけれど、自分にとってそれは罪でも罰でも何でもなく、ただ君を愛するための一手段でしかなかったのです。
「…蘇芳にこそ、私の想いは伝わっていますか?誰より何より、貴方が大切なのですよ」
彼女からそういった言葉を聞く度になんて自分は愚かなのだろうと思う。こんなに玄奘を恋い慕っているのに、それを表す言葉を自分は三つしか知らない。三つしか持っていない。好き大好き愛してる。自分の想いはそれだけでは表せないものなのに、その三つの言葉しか持っていない自分は、一体どうやってこの狂おしいほどの想いの奔流を彼女に伝えればいいのだろうか。
「…俺はなにがあっても玄奘を護るよ。たとえ俺が此処じゃない何処かに行くことになっても、玄奘のことは絶対に護るから、それだけは、どうか、忘れないでいて」
たとえば彼女が自分を忘れてしまっても。
たとえば彼女が自分のことを好きじゃなくなっても。
たとえば、自分が、この世から、消えてしまって、も。
「何時だって玄奘のことだけが好きだよ。どうか、忘れないで。それだけで俺は、生きていけるから」
有無を言わせないように抱きしめた体は温かく、その生があまりにも優しくて幸せだったものだから、たとえば自分の鼓動が途絶えても、彼女の心音が途切れることがないのなら、それだけで幸せなのだと、世界中で何より自分が一番幸せなのだと自慢できるくらいに、幸せになれてしまうのです。
「……忘れないで、どうか、玄奘」


//有海
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