修学旅行当日。身支度を整えた薫はそっと鏡に左手を当てた。鏡の向こうで同じ様に身支度を整えた千鶴が緩く微笑みながら右手を当てた。
「……行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
この後一週間千鶴の優しい声を聴くことが出来ないのだ。自分に耐えられるだろうか。千鶴の声は薫にとって一種の精神安定剤だった。麻薬と言ってもよい。一度その甘さを知ってしまったらもう抜け出せない。千鶴なしでは生きられない。だって、もう、
甘美な静寂をガチャリと言う煩雑な音が遮った。
「薫、時間…アンタ何やってるの」
「……母さん、今行くから」
最近部屋に閉じこもりがちな薫を快く思っていなかった母親は、鏡に手を当てたまま動かない薫を訝しげに見つめた。その瞳が煩わしくてそれ以上は何も言わずに母親の傍を通り抜ける。最後に小さくもう一度、千鶴に行ってきますと告げながら。





薫が出て行った後を見つめていた母親は、やがて視線を鏡に映した。そこには何も映っていない。
薫が変になってしまった、と思う。昔は鏡に向かって独り言をぶつぶつ呟くような子では少なくともなかった。この鏡さえなければ、昔の薫に戻ってくれるだろうか。
鏡の向こうで千鶴が悲しそうにまゆを寄せた。何か呟いたが姿が見えない母親にとっては何も聞こえないのと同じだった。





090827/有海
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