わたしはきっとこの人のことが好きだった。きっと世界で一番好きだった。それだけがどうしようもなくわたしの胸を締め付ける。なんで覚えていないんだろう。なんで忘れてしまったんだろう、他の全てを忘れても良かったから、彼のことだけは忘れたくなかったのに。
「一樹さ、ん」
「おう。どうした?」
「いいえ、なんでもありません。ふふふ、呼んでみたくなっただけです」
一樹さんの聞かせてくれる話は優しい。そしてとても温かい。私の忘れてしまったあの頃の記憶、学園での出来事を聞かせてくれる。学園での思い出を話して聞かせてくれるときの一樹さんはとても優しい目をしているから此方まで優しい気持ちになれる。でも一つだけ寂しいのは、学園を卒業してからの話を全くしてくれないことだった。どんなに尋ねてみても一樹さんはいつも曖昧に笑って誤魔化すだけ。
(ねえ、一樹さん。あなたの記憶の中のわたしは一体どんな人だったんですか。ねえ、一樹さん、今のわたしではあなたの傍に居られませんか)
そう問いかけてみたくても臆病な心がそれを拒む。明確な拒絶をされた時、どうしたらいいのか分からなくなるからだ。
過去のわたしが心底羨ましいと思う。ずるいよ、ずるい。過去のわたしは無条件に一樹さんの傍に居られる。わたしが欲しくて欲しくて堪らない物をあっさりと手にしてしまう。交換して欲しい、許されるなら過去に戻りたいと思う。一樹さんが好きなのはきっと過去の『月子』で今の『月子』じゃない。其れを認めるのは少しだけ悲しかったけれど。
(それでも彼が笑っていてくれるなら)
「…ん?どうした、月子」
「…いいえ、何でもありません」
「なんでもないことないだろ。俺に話してみろよ」
「え、でも、」
「いいから。俺がお前に頼られたいんだ。な?」
「かずき、さん」
「ん?」
どうしてそんなこと言うの。わたしは貴方のことが好きで、貴方はわたしであってわたしじゃない人が好きで。この一言を言ってしまえばもう貴方は此処には来てくれないんじゃないのかと怖くなる。弱虫で意気地なしで臆病なわたしはその選択肢を選べない。どうせ思い出せないなら、どうせ忘れてしまっているなら、ずっとずっとこのままでいい。一樹さんが傍に居てくれるなら、他にはなにもいらない。今のわたしにとって一樹さんは世界の全てだった。神の絶対性にも似たその若草色以外わたしは他に何も、本当に他に何もいらなかったのです。
「わたしは、」
「ゆっくりでいいからな」
「はい…、あの、学園を卒業した後のわたしたちの話が聞きたいです」
「わたしたち、の」
「はい。駄目ですか?」
「駄目って言うか…いや、そうだな」
一樹さんは一度困ったように笑って頬を掻く。少しだけ泣き出しそうなその瞳に何故だかわたしが泣きたくなった。
(教えて欲しい)
貴方が愛したわたしを。わたしが貴方の愛した『わたし』になれるように。もう一度貴方に愛されるそのために。そうしてもう一度、教えて欲しい。貴方が泣きそうになる、そのわけを。




一樹さんが話してくれる『わたしたち』の話は砂糖菓子の様に甘やかで、綿菓子のように柔らかで夢の様な物語。何より話聞かせてくれる一樹さんがとても優しい顔をしていたからわたしはそれだけで幸せな気持ちになる。嗚呼やはりわたしは、消え去ってしまった『わたし』も今のわたしも、一樹さんが好きなのだと、そう確信してゆるりと目を細める。銀色と若草色が混じり合った光の塊は眩しい。このまま永遠に時が止まればいいのに、そうすればずっと一緒に居られる。貴方がわたしから離れて行ってしまうかもしれないという恐怖に怯えずにいられる。でも、とその瞼を降ろした。一樹さんの幸せはわたしの幸せで、だからいつか手を離さなければならない。何時までもわたしで縛りつけているわけには、いかない、から。
「ねえ、一樹さん」
「ん?」
髪を撫でる手が心地よくてそのまま眠りの世界へ誘われる様な。もうすこしだけ、このまま。
「何時までもわたしの手を握っていなくても、いいんです、よ…」

「…離さないって言ったろ?」
ゆらり、ゆらり、眠りがわたしを誘う。眠りの深淵に落とされる少し前、聞こえてきた優しい、今にも泣き出しそうな、ともすれば泣いているかもしれないその声に、わたしはどうする事も出来ないまま。
「…お前は何も覚えてないんだよなあ…」





「あ、おはよう月ちゃん。目覚めた?」
「…鈴ちゃん」
「月ちゃん桃食べる?たくさん貰ってさ。割と大きいから食べ応えが…」
「…鈴、ちゃん」
「ん?月ちゃんどうし…」
「わたし、また、あの人を傷つけて、わたし、どうしたらいいのかなあ…わたし、あの人のこと好きで、どうしたら、わたし、」
「月ちゃん、落ち着いて、」
「わたし、好きなの、ねえ、どうしたらいいのかなあ、教えて、ねえ、鈴ちゃん…」






さよならよりも残酷に僕らを拒んだ幸福
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