ガヤガヤと煩い講堂の中で不知火は一人机に顔を伏せて目を瞑っていた。思い描くのは月子のことばかり。どうして大切な物ほどこの手から擦り抜けて行くのだろう。
分かっていた、怖かっただけだ。また月子に会って何もかも無くなってしまった現実を突き付けられるのが。月子は悪くない。悪いのは恐怖のせいで足が竦んで動けない自分だ。もう二度と離さないと決めたのに、もう二度と傷つけないと誓ったのに。
(結局いつまでも俺は弱いままだ)
強くなると誓ったあの日から、強くなったと自負してきたのに、其れがあっけなく崩れて行くのを感じる。強さとは一体何なのだろう。愛おしい人を守れずにいるならそんなもの強さとは呼べない。そんなものを強さだというなら、そんな強さなどいらない。
(忘れられるって結構辛いんだな。前回ので慣れたと思ったのに、)
歌うように心の奥で呟いた言葉に自嘲気味に笑って顔を上げた瞬間だった。目に飛び込んできたのは底冷えする瞳を持った彼女。全人類の中で最も苦手とすると言っても過言ではない存在。
「…よお」
「どうも。少し顔貸してもらえますか」
「は?」
問答無用で腕を掴まれずるずると引っ張られていく。周囲の好奇の視線が纏わりついてきてむず痒い。何度離せと言ったところで鈴は一向に離す素振りも見せない。半ば諦めていたかけていた時、辿り着いたのは人気のない大学の裏手だった。さらりさらりと揺れる風は陰鬱な心の奥とは違って爽やかである。
「なんだよ、」
「今からすることをわたしは謝ったりしません。いいですね」
有無を言わせない口調に拒否権も何もあったものじゃない。だが、その瞳から何をしようとしているのか簡単に見てとれて、不知火は小さく笑った。月子が好きで奪うと言っている割にはお節介すぎるほどのこの女を、今なら少しだけ好きになれる気がした。本当に少しだけ。
「わかっ…」
その言葉を言い終わらないうちに大きな衝撃が頬を襲う。なんとか立ったままでいられたがなんという力だ。しかも平手打ちではなく掌はグーの形に握りしめられている。少しは手加減というものを知って欲しい。
「…っ、いってえ…」
「当たり前です。痛くしましたから」
悪びれもせず言いきる鈴の目はやっぱり何時もの様に底冷えする冷たさを内包していたけれど、何だかその冷たさが何時もより和らいでいる気がする。そう思うのは自分が弱っているからなのだろうか。「言いましたよね?わたし、月ちゃんを泣かせる様なことがあったら速攻で奪いに行きますと」
「ああ、言ったな」
「何やってるんですか。本当に奪いますよ」
「……」
「あなたはそこまで馬鹿じゃないと思ってた」
吐かれた息は重い。
「いいですか、一回しか言いませんから良く聞いてください」
「あなたは記憶を持ってる月ちゃんだから好きなんですか。記憶を持ってない月ちゃんはどうでもいいんですか。記憶のない月ちゃんは好きじゃないんですか」
「ちが…っ!んなことあるわけ、」
「でもあなたは逃げました。いいえとは言わせません。記憶を持っていなければどうでもいいなら、さっさと月ちゃんの前から消えてください。あなたなんかより幼馴染さんたちの方がよっぽど強いですよ。それにね、一番辛いのは誰だと思いますか。あなたじゃない。勿論幼馴染さんたちでもない」
「…あぁ」
「いいですか。わたしじゃ駄目なんですよ。月ちゃんを幸せにするのは。わたしじゃ駄目なんですよ。月ちゃんを笑顔にするのは。どうしてわたしじゃ駄目なんですか。あなたは分かってる筈でしょう。あなたが一番月ちゃんの心に近いんだから」
「わたしじゃ駄目なんですよ。あなたじゃなきゃ駄目なんですよ。知っていますか、本当に分かっていますか」
「あなたも分かっているでしょう。あなただって月ちゃんじゃないと駄目なんだから」
「…あぁ。代菅、」
「なんですか」
「悪かった。どうかしてた。記憶がなくたって月子は月子だよな・・・俺が愛したあいつのままだ。俺はどうかしてたんだな。こんなことで揺らぐなんてよ」
そうだ、月子は何も変わらない。月子は何時だって月子のままだ。何を揺らいでいたのだろう。夜久月子は不知火一樹が好きになった人間のままだ。何も変わらない。見失っていた、そんな簡単なことも忘れていた。馬鹿だなあ、早く月子のもとに行かなければ。行って抱きしめて言わなければ。愛してる、記憶がなくたって月子は月子で、俺が愛している女だと。記憶なんてもう一度積み上げればいい。もう一度愛しい記憶で埋めればいい。時間なんてまだまだあるのだから。
「なら早く行ってください。こんなところで時間を潰している場合じゃないでしょう」
「そうだな、すまん!」
そういって走り出す。これは逃亡ではない。愛する彼女のもとへの疾走だ。
「そうだ、代菅!」
「…はい?」
「お前にあそこまで言わせて悪かった。さんきゅな!」
「…貸し一つですよ、不知火さん」









ばか


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -