始まりは、雨の日だった。体に纏わり付くような重たい雨が降る中、躊躇いもなく差し出された小さな掌を月子はまだ覚えている。
「あなた、怪我をしているのね」
幼さの残るその声は、けれども不快に感じることはなかった。すとん、と体の奥深くで落ち着くような。
時折怪我の痛みに顔を顰めるだけで何も言わない月子に対して、少女は困ったような笑顔を浮かべた。そうして暫く何かを考えているようだったが、漸く何かを決心したのか今度は花が咲くような笑顔を浮かべて小さな掌を月子に向かって差し延べた。その白さが赤に染まっている月子と対照的で、何故だか笑い出しそうになる。
「ねえ、あなた、わたしと一緒にこない?傷の手当てをしたいの…それにこんなところに一人きりは、淋しいでしょう」


それが真珠星と呼ばれた少女と南極光と名付けられた少女の出会いだ。この出会いが全てを変えていくことになろうとは、まだ誰も知らない。


◇◆◇



スピカの朝は早い。スピカが仕える少女お気に入りの花壇の手入れをし、その日の少女の洋服を準備する。生憎料理の腕が壊滅的なために朝食の準備こそ任されていなかったが。
「あ、おはようございます、星月先生」
少女の部屋に向かう途中、少女の主治医である青年――星月琥太郎と出会う。彼は少女が幼い頃から少女の主治医を任されてきたらしい。彼女は体が弱いのだ。暇さえあれば昼寝をしているような琥太郎はまだ眠いのだろう、大きな欠伸を一つしてから至極眠そうな声でおはよう、とだけ返した。
少女の部屋は屋敷の中でも特に日当たりの良い場所にある。スピカは預かっている部屋の鍵を使ってゆっくりと扉を開いた。途端に目に差し込んでくる眩しい程の朝日に一度だけ反射的に瞼を閉じ、それから小さく笑った。おはようございます、お嬢様。
「スピカ、おはよう!今日はいい天気ね。ピクニックにピッタリだわ」
「そうですね。でもピクニックは駄目ですよ、お嬢様。まだ病み上がりなんだから」
「……お屋敷のお庭でも駄目かしら」
「星月先生に怒られますよ」
「それは嫌ね。琥太郎は怒ると怖いのよ」
そんな他愛のない会話がスピカは一番好きだ。少女が与えてくれた、何でもない日常がこんなにも幸せだとは思わなかったから。
少女の名前はアトリア、という。南極光と名付けられた少女はとある大富豪の娘だった。年齢はスピカよりもいくつか下であったが、その言動からは全く年下と感じさせない何かがある。
ここでスピカのはなしもしておこう。スピカ、本名は夜久月子という。けれどももう自分はその名前を棄てたと思っている。アトリアが「わたしが星の名前なのだからあなたもそうしましょうよ」と発言した時から月子はスピカになった。けれども、その名前を呼ぶのは主人であるアトリアだけである。他の誰にも教えてやらない、この名前はわたしと彼女だけのものだ。故にスピカと呼ばれるのは二人きりの時だけで、それがまるで秘め事のようだったから少し嬉しかったのを覚えている。
スピカは駆け出しの怪盗だった。過去形なのはアトリアに拾われた駆け出しだったあの頃よりも時間が経過し、もう駆け出しとは呼べなくなったからである。スピカは今でも時折夢に見る。重たい雨の降る、あの夜のことを。盗みに失敗し相手に深手を負わされたために身動きが取れずにいたスピカにアトリアが手を差し延べた。家に連れ帰り、献身的に世話をし、新しい仕事まで与えてくれた。その時スピカは決めたのだ。何があっても彼女のことだけは守ろうと。何があっても、何をしてでも、守り抜くと他の何にでもなくこの拍動に誓ったのだ。
「あら、もうこんな時間ね!行きましょ!お腹が減ったわ」
そう言ってアトリアがスピカに向かって手を伸ばす。光を孕んだ、神の絶対性にも似たそれをスピカは握る。そうして、はいと返事をしながら笑った。







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