それはあまりにも遠い昔の記憶。涙が出るほどにうんと懐かしい、そんな記憶だ。
『ねぇ琥太にぃ、とっておきのおまじない、教えてあげるね』
『ん?何だそれは』
『大切なひとが幸せになれるおまじないなの。琥太にぃだから教えてあげる』
『……どうして、それを俺に?』
『…いつか、いつかね、琥太にぃに大切なひとが出来たとするでしょう?その時に使えるおまじないの一つや二つ、知っていてもいいじゃない……わたしが教えてあげられなくなる前に』




「……先生……星月先生!」
そこで漸く琥太郎は自我を取り戻した。どうやら例の如く居眠りをしてしまったらしい。新しく保健係に任命された生徒が呆れたように溜息を吐いて、閉じていたカーテンを開けた。と、同時に流れ込んで来る鈍い夕日に思わず目を細める。眩しいぞ、と譫言のように呟けば、自業自得ですよ、との声が帰ってきた。
保健係に任命された彼はどこか雰囲気が、光を孕んだ彼女にとてもよく似ている。だからといってどうするわけでもない。彼女はもうこの学園の何処にもいないのだ。名前を呼んでも返事なんて返ってこない。理解しているし、それを選んだのは琥太郎自身だ。今更何を後悔するというのか。たとえ未だに彼女が愛用していたマグカップを捨てられなかったとしても。
「ねえ、先生」
泥沼に陥りそうな思考を無理矢理引き戻したのは、他でもない男子生徒のものだった。見慣れない、切なそうなその表情は夕陽に照らされてどこか別世界の風景のように琥太郎の視界に広がる。どうしたんだ、と問えば、彼はどうしたら大切な人は幸せになるんだろうと消え入りそうな声で答えた。
「俺って馬鹿だから…どうやったら幸せにしてやれるかわかんなくて、相手を傷付けてばっかりで。わかんないよ。どうやったらあいつが幸せになるのか」
若いなあ、と思う。それは琥太郎がうんと昔に失ってしまった、あまりにも眩しくて優しい、まるで心音のような感情だった。そして今ではもう手離すことでしか相手を幸せにしてやれないと感じている自分にはひどく羨ましい感情だった。
幸せとはなんだろう、。幸せとは目に見えないから難しい。幸せに形があったら相手が幸せであるのか分かるのに、形がないから相手が幸せなのか、自分が幸せにしてやれているかがわからない。――けれども、自分は幸せになんかならなくていいと琥太郎は思う。自分は幸せになんかならなくていいから、自分に分け与えられる筈だった幸せが彼女の元へいけばいい。夜空に浮かぶ、淡い光と同じ名前を持つ、世界で一番優しい彼女がうんと幸せであるのならば。それなら自分がどれだけ幸せでなくともそれでいいのだ。本当に、琥太郎はそれでいいのだ。
「……そういうのは言葉にしてやりなさい。言葉にしなければ、声にして告げなければ決して伝わらない。好きなら好きだと、幸せにしてやりたいならそう伝えてあげなさい。きっとそれだけで、」
言葉に出来なかった自分の代わりに、そんな身勝手な感情を乗せて琥太郎は言う。彼は暫く呆けたように琥太郎を見つめていたが、やがて穏やかにそうですね、と笑った。まるで先生は言葉に出来なかったことがあるみたいですね、と添えて。
「…そういえば先生、」
「ん?なんだ」
「前から気になってたんですけど、あれ、何ですか?そんなに毎日毎日晴れになって欲しいんですか?」
指差されたのは窓際にぶら下がった白い、今は飴色に色付いたてるてる坊主だ。それを見て琥太郎は再度目を細める。取っておきのおまじない。遠い昔、大切にしてやりたいと思っていた少女から教えてもらったおまじない。そっとそれに触れるとなんだか温かいような気がしたから、忘れようと努力していた体温を思い出して何だか泣きたい気持ちになったけれど。それでも彼女が幸せになるのなら。
「これか?これはおまじないだ」
『そのおまじないはね、これを窓際に下げておくだけでいいの』
『てるてる坊主じゃないか』
『違うよ!……いやまあ違わないんだけど。大切な人が幸せになる、自分がどんなに遠くにいても、傍にいなくても、幸せになりますように、っていう取っておきのおまじないなんだから』
「おまじない?どんなおまじないなんですか?」
「………さあ、忘れたよ」







声にならなかったなまえ








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