「好きだよ」 「何が?」 「その一生傷」 私がそう言うと彼は「あぁ、」と言って左腕の手首の辺りから肘にかけて真っ直ぐに残る7センチほどの今では蚯蚓腫れの様になっている傷跡に目をやった。暖房の利きすぎている大学の図書館。長そでのシャツをまくった彼の腕に見える傷跡。私はそれが好きだった。 3限目の授業が終わった午後2時過ぎ、法学部である私と彼は同じく法学部である共通の友人4人で必修科目の授業の宿題を一緒にやろうと約束していた。しかし2人はサークルの用事があるということで来られなくなり、その結果私と彼の2人きりで4人用の丸机に向かい合わせに座り宿題をすることになった。 教科書とポケット六法を傍らに置き、私はなおも彼の左腕を見つめる。 「触っても良い?」 「嫌だよ」 「何でー、ケチー」 「ふん」 冷たい風に吹かれて窓がカタカタと音を立てる。 大学2回生の秋、目の前の彼と仲良くなったのは今年の春からだった。 法学部前期の30人程度の専門科目の授業で4人グループを作り、日本国憲法と外国の憲法を比べて最後にパワーポイントで発表するという授業方式で、そのときグループを組んだのが私と彼、そして今日は来られなかった2人だった。私たちは前期の授業の間、授業時間外もその発表会に備えてイギリスの憲法と日本国憲法を比べに比べ、そのデータを分析した。私たち4人は8つほどあるグループの中でもダントツで仲の良いグループとなり、他の授業で出会っても隣に座ったり一緒に昼ごはんを食べる様にもなった。無事前期の授業が終わり、グループが解散となっても私たちは度々このように図書館で集まったり飲みに行ったりしていた。 彼と初めて会った4月の日、私はちらりと見えたあの傷跡に惹かれたのだった。 彼の左腕に一生傷ができたのは彼が小学校一年生の時、友人と教室で遊んでいたら相手の悪ふざけで背中を押され、窓ガラスに腕を突っ込んでしまったせいだった。「人間の体の中っていろんな色があるんだなってそのとき知ったよ」と彼が言うほど、腕はガラスによって深く裂けたらしい。 「綺麗だよね、傷」 「そうかな」 私は昔から一生傷のようなものが好きだった。 かさぶたなどには全く興味をそそられず、うっすらと残る火傷の跡のような傷跡でなくてはいけない。赤くはなく、白っぽい肌色の中にある・・・、など条件を言えばきりはなく、人に共感などしてもらったことのないおかしな趣味だとは自覚していた。 もちろんその傷は自分でつけたものであってはいけない。 それは私にとって、何かの象徴のようなものだった。 「完璧なんかじゃないよ」 前期のグループ授業の準備の時、夜の図書館で私は彼にそう言った。 そのときもあとの2人はバイトか何かで夕方には帰り、私と彼の2人でいろんな本を引っ張り出し情報収集にあたっていた。 私は子供の頃から大抵のことは人並み以上にできた。勉強面でも理数は苦手と言うこともなくまんべんなく8割以上取ってきたし、運動も得意だった。高校の時の文化祭で行ったミスコンでは3位に入賞したし、料理だってあらかたできた。今はこのように国立大学に通い、授業をサボったことも、単位を落とすこともなく今まで順当に来ている。 だからよく言われる一言がある。 「苗字さんは完璧だよね」 そんなことはない、周りの人間が気付かないだけだ。私はいつもいろんなコンプレックスを抱えて生きているのに。 あの一言を言われるといつも困ったように笑って対応するだけだったが彼の前では完璧ではない、と本心を漏らしてしまった。 何時間にもわたる情報収集に疲れていたせいかもしれない。 彼以外に周りに人がいなかったせいかもしれない。 「俺も完璧なんかじゃないよ」 さらりと流されるかと思いきや、彼は真面目な顔をして応えた。そのときの季節は初夏。 私は彼の腕にある一生傷を見た。 「私の初恋の話はしたことあるっけ?」 「聞いてないな」 「中学1年生の時のフランス語の先生でさ、右手の人差し指の第一関節より上がなかったの」 私が通っていた中学は中高一貫校で、高校のフランス語の先生がたまに授業をしてくれた。40過ぎのおじさんであったが、人差し指のない彼に私は惹きつけられた。何故こんなに惹かれるのか中学生ながらに深く考え込んだ挙句気付いた。 完璧ではないところが良かったのだ。 一生傷はもう消えない。なくなった指も戻りはしない。 「何で指がなくなっちゃったかは、聞きそびれたんだけどね・・・」 おかしな趣味を暴露して目の前に座る友人に幻滅されては困るので、指のないところに惹かれた、というのは黙っておく。幻滅されるほど彼が私に期待や憧れを抱いているかは不明だが。 「欠けてるところが良い」 「ん?」 ぽつりと呟いた私の言葉に、教科書に目を通していた彼が顔を上げる。 一生傷があるということは、もう生まれたままの完璧な体ではない。それは、体を通して自分が完ぺきではないということを言葉なしで周りに伝えられているようなものだと思う。 私自身完璧ではないから、それを証明できる一生傷は羨ましかった。そしてそんな人の側にいるとひどく安心した。 斜め前に座る3人組の1人が暖房の利きすぎた部屋の空気に耐えられなくなったのか窓を開けた。瞬間、さっと冷たい空気が屋内に注ぎ込まれる。 彼が捲し上げていた袖を下ろし完璧になろうとするのを、私は腕を伸ばして止めた。 「私、仙石が完ぺきじゃないこと知ってるよ」 「・・・。俺も苗字さんが完ぺきじゃないこと知ってる」 「そうなの?」 私は彼のシャツの袖を握っていた手を自分の方へ戻す。 「だって、自分でそう言ってたじゃん」 4ヶ月も前の、その夜の図書館での一言を彼は覚えていた。 誰に言っても冗談だと思われたり、深くは受け止めてもらえなかったあの一言を。 息を吸って、そして吐いた。嬉しいな、と思った。 「私、一度小論文模試で校内平均点以下を取ったことがあるの」 「あーあ」 「魚を3枚に下ろすの下手だし」 「うん」 「バイトのレジ打ちなんて何回も間違えるし」 「ダメじゃん」 そう、私には駄目なところが数えきれないほどある。他人にいくら自分の欠点を言っても嫌味に捉えられたり、勉強できるから良いじゃん、と受け止めてもらえないことばかりだった。 褒められる度にこれからも完璧でなくてはならないと思い、私の世界はひどく窮屈だったのだ。自分に一生傷がないことを疎んだこともある。 君が完璧でないことは、君の一生傷が証明する。私が完璧でないことは、どうか君が証明して。 もちろん一生傷があるなら誰でも好きになるわけではない、それはただのファクターだ。 私はもう一度腕を伸ばし、彼の傷跡に触れた。 「好きだよ」 君のことも。 その返事を私は待っていた |