少しの間だけ出張で彼の隣を留守にしていた。たいていは一緒だったから何だか新鮮でもあったし、不謹慎ではあったけれどちょっとわくわくしてもいた。けれど私ひとりで見た世界は灰色がかっていたからそれがすごく不思議で、それから心の中にぽっかり穴が開いたみたいになった。彼と見ていた世界は綺麗に着飾っていたり、可愛らしく色付いていたり。いつもの甘い香りが傍にいない。こんなにも一瞬ごとに彼の顔が頭を過ぎるなんてどうかしてる。
焼き魚の香りに誘われて家の重たい玄関の戸へ足早に歩む。すっかり馴染んだここの空気は拒むことなく私を受け入れてくれる。インターフォンを押すとすぐにかちゃり、鍵に開くの小さな音が鼓膜を叩く。


「おかえり。一週間ぶりだよな」
「ただいま。そう、だね」


晃一の顔を見たらどうしてか瞼の裏が熱を持った。会いたかったなんて口が裂けても言えない。家を出る前は足取りが軽いななんて嬉々としていたくせに帰ってきたらこれだ。晃一はキッチンへ足を運んで一度休めていた手を再び動かして包丁をトントンとリズミカルに動かし始めていた。彼を通り越して私が見たのは大きめの鍋から高く上がる湯気。けんちん汁か豚汁かな、と軽く覗くと以外にも粕汁だった。

話したいこと聞きたいことはたくさんあるのに、タイミングが掴めぬまま気まずさだけがどんどん時間を侵食していく。なおも押し黙ったままその場から動けないでいたのだけど、ひとつ気合いを入れるべく息を吐いた。よし。ゆっくりと浅く吸った息を吐いた。ちゃんと言おうかな。会いたかったよって。たった1週間だったけど長く感じた。時間が進むのを忘れてしまったみたいに。味が薄かったのか再び酒粕を溶かしながら、どうしたのかとこちらを見上げてくる晃一のオレンジ色の髪が鼻の頭をくすぐる。段々と緩やかなカーブを描いていく彼の口元に心臓が悲鳴を上げたけれど、悲鳴を上げたのは心臓だけではなかった。


「…」
「でっけー腹の音。この粕汁超美味いし、今焼いてる魚も後少しで焼き上がるから。名前が居ない間レパートリー増えたんだからな」


きゅるる、と小さく鳴いた私のお腹は空気が読めないようである。羞恥で耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かるから余計に情けないし恥ずかしい。この場から脱兎のように走り去ってしまいたいのが本音だが、目の前に食べてくださいと言わんばかりにいい香りを散漫させるお魚と粕汁。別に晃一は今まで料理が苦手だったとかじゃないんだけど…ていうか種類によっては私よりも遥かに美味しい料理だって作る。きっと晃一は私が居なくたって生きていけるんだろうななんて自棄なことを考えていたらいきなりおたまが足元に落ちて顎を掴まれ柔らかいものが押し当てられた。


「…なに」
「なにって、何かダメだった?キスしただけなんだけど」
「ダメってわけじゃないけど…なんか」


いきなり、だった。キスなんて恋人なら当たり前。だけど、何だかいつもより特別に感じたのは久しぶりだったことだけじゃなくて少しお酒の匂いがしたからかも。晃一が私を求めたことなんて指折りくらい。気持ちを確かめたのだって一度っきりだった。それから晃一が一人暮らしをしてるって聞いて就職をしたら一緒に住んでもいいよって言ってくれて。色々とそこに愛が在ったのかって問われたらちょっと微妙なくらい。友達の延長線上みたいな関係。晃一は俯いた私を覗き込んでぽそりと呟いた。


「名前が、どこへ行ってしまうか分からないだろ」
「晃一は私のことが好き、なの」
「当たり前だろ」


そういってもう一度、を殊更優しく落とされた口付けに、とうとう私は彼の優しい手に身を預けた。多分頬は上気していた。
彼の隣の心地良さにそれを当たり前だと思い込んでいた。だから私は傍を離れることいとわなかったのだろう。くすんで見えた世界は私ひとりだけでは鮮やかな衣を纏うことはかなわない。こんな宇宙の片隅でも晃一なら彩ることが出来た。ぽっかり開いた穴はほのかなお酒の匂いでいっぱいに埋め尽くされた。


「…いい匂い」

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テーマ「人外ファンタジー」
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