「狭いところが好きなの」


もっともらしいのかも分からない理屈を自らの足の隙間に落とす苗字が泣いているように見えて、俺はばかみたいに笑った。きゅっと唇を結んで、ああ、結ぶどころか噛んで薄く血が滲んでしまっている、その口が開かれることはなく、俺の笑いも尻すぼみに消えてゆく。


「放っておいてよ」


何分か、何秒か、立ち尽くしてばかりで何の役にも立たない俺に、苗字はまだ俯いたまま、言う。言って、今度こそ、泣いた。見られたくないと思っているだろうな、ときっと当たっている予想を無視して、俺は隣に腰掛ける。非常階段の踊り場の隅で、一人泣くなんてあまりにも、あんまりだ。優しさと下心の区別は付かないけれど、それでも、ここには二人しかいないのだから。
苗字は河野さんのことが好きらしかった。がんばっている彼女が好きなのだと、笑顔を見られたらそれで幸せなのだと、言っていた。



一時間程前、名前は生徒会室に居た。本当は、真直ぐ帰宅する筈だったのだけれど、昇降口で会った仙石と少し立ち話をした時、「桜はまだ残って仕事をしてる」なんて聞いたものだから、引き返して生徒会室へ向かったのだ。
ぺたぺたと情けない音を鳴らして数分。さして乱れていない息を整えてから扉を引くと、見慣れた横顔がこちらを振り向き、笑った。


「帰ってなかったの?」
「桜ちゃん残ってるって聞いたら、なんか」
「ありがとう」


あ、こんな風に言われるのかもしれないとただの想像は妙に現実味を帯びて、胸を刺した。好きだよ、なんて、言うのは簡単なのだ。意味を込めるのが、難しいだけで。気味悪く思ったとしても、表情には出すことなく、今みたいにありがとうと笑うのだろうな、きっと。


「桜ちゃん、」
「うん?」
「……好きなの、桜ちゃんのことが、好き なの」


俯いてはいけないと、思った。握りしめた制服のシャツには幾つも皺が付いた。少し開いた窓からねっとりとした生ぬるい風が吹き抜けた。プリントがはためいて、桜ちゃんの髪も揺れた。そういう断片を、ずっと抱き締めていたいけれど、私に刺さったとしても、そっと包んでいたいけれど。


「石川くんのことが好きだって、言ってた」
「うん」
「同性だからとか、そんなこと、ひとつも言わなかったの」
「うん」
「最後まで、私の好きな、桜ちゃんのままだったの」
「…うん」


その後はもう、嗚咽を洩らすだけだった。涙を止めようともせず、頬に流れるそれは重力に引き寄せられるままに、床にいくつも染みを付けた。固く握られた拳を上から包んで、指を絡めるようにほどく。
今、言ってしまうのは、あまりに卑怯だから。俺は友達だから。だから、下心なんてものはこの手には乗せてやらない。


「ありがとう、井浦」





好きな人の幸せを願った、



君の手を握って



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