▽ A
「兵助」
「―――勘ちゃん」
声に振り返ろうと、左後ろを見た。
長い髪につられ、首がぐらんっと右に傾く。
「うれしかった?」
「うん。髪が邪魔だった」
「それは良かった」
久々知の赤みを帯びた頬に、勘右衛門が笑った。しあわせそうで何よりだと。
そのまま勘右衛門はこちらに近寄ってきて、肩に付かない久々知の髪先に触れてくる。そして一束指先で持ち上げると、かるく引っ張った。「で、どうするの?」
「どうするって?」
「その人形。せっかく兵助が作ったんだろ、捨てるとかできんの?」
「まさか。はっちゃんが持っててくれたものだ、おれの宝箱に入れて置くよ」
「増えちゃって困るくせに」
「今は何も入ってないよ」
たしかに入っていない。四角く白い箱には、目に見えないたくさんの記憶だけ。ほかの誰かが開けようとも、そこには何も、見つけられないだろう。
豆腐に似せた箱は、久々知が小学生の頃に自由工作で作ったものだ。保護者同伴の学校のバスツアーに参加した中で、はじめて尾浜勘右衛門に出会った。そこで何かが溢れてきた。気づけばその手のまま、宝箱を作っていた。
勘右衛門は覚えていないという。その箱のことを。
久々知からすれば、とんでもない話だ。
こんなにも思い出の詰まった大切な箱を、今まで見たことがなかっただなんて!
久々知から背を向けて、自分の机に向かった勘右衛門がふと言った。
「てか、今でもおれ、結構疑ってるんだけど」
「なにを?」
「その箱。本当に大昔から兵助の宝箱だったの?」
小学生の頃を大昔だと呼んでいるだけではないのか、そう言いたいのだろう勘右衛門の質問に、久々知は怒るわけでもなく応答した。
「本当さ。何百年も前から、おれの宝箱だよ」
そうじゃなけりゃ、この気持ちは説明がつかない。小学生のそのとき、何故忘れていたのだと自分を責めたてながら、久々知が必死に記憶の形をもので表現したのだ。間違えるはずがない。
それを何度も説明するのにもかかわらず、勘右衛門は本当に疑い深い。
いや、裏を返せば、しっかりと久々知の話に向き合おうとしてくれているということか。だって三郎は、言ったその場で吐き捨てたのだ。
『妄想も大概にしろよ、狂人』
あれは心に結構くる場面だった。
なんせ高校の入学式、知り合いの少ないなかで見つけた、幾世紀ぶりの懐かしい顔だったのに。昔と変わらず雷蔵を追う姿を見かけたために、覚えているとばかり思っていたのにもかかわらず、そうではなかったのだから。
なんと思わせぶりな奴だろう。
それでこそ曲者のろ組というべきか、いや、八左ヱ門のことを思うと一概に言えないが。とにもかくにも久々知の心は傷付けられた。かつての仲間に忘れられるという現実は、後輩や先輩に忘れられるより、違う痛みを与えてきた。
そこでふと思った。
(これがもし、八左ヱ門だったとしたら)
しかしながら不思議なことに、それについては何も苦しまなかった。
どうして?
そう、勘右衛門に訊ねられたことがある。
お土産と称し、人形ストラップを八左ヱ門に渡してもらった直後のことだ。面倒事を団子と引き換えに行ってくれたお詫びだ。これぐらいは言っておいた方がいいだろう、と判断した。
「はっちゃんはおれのこと、どうでも良かったから」
「え? 好きなくせに、その視野に入れてもらえてなかったの?」
「うん」
記憶の全くない勘右衛門が、団子を片手に目を丸くした。元よりまるっこい目の形が、さらに満月に似ていった。
それを面白いなと見ていると、勘右衛門が「仲良かったんじゃないの、おれたち?」と質問を繰り出してきた。
「仲良かったよ、みんな」
「あーなんかわかった気がするわ」
察しの良い彼が唸って、団子を口に放り込んでいく。
「おれが南蛮の話をした時もだ」
「南蛮って、外国?」
「そう。ローマ字がちょうど流行ってて、おれもそれならってことで、後輩と遊んでたんだ」
「兵助の口から“遊び”って聞くと、変な感じするな。で、八左ヱ門はどうしたわけ?」
「毒トカゲ追いかけてた」
「ぶふっ」
そりゃ八左ヱ門らしいわ。
そう勘右衛門は笑ったが、兵助は笑えなかった。
だってそのとき勇気を振り絞っていたのだ。その人生において、今振り返ってみても、一番の正念場だったといえる。
半紙に大きく“戦刀”と書いては、すぐに八左ヱ門のところに向かった。ちょうど動物の捕獲を終えたところの彼に、労わりの台詞の直後、半紙を突きだしたのだ。
それに対し、八左ヱ門の言ったことといえば、
「鍛錬か? いいぜ!」
だった。それは潮江先輩―――という嘆きも聞かれないまま、久々知は自室に走り込んだ。
それが懐かしい室町の記憶である。
そのため久々知にとって八左ヱ門の記憶とは、自分への友愛を思い出させる、邪魔な存在でしかなかった。
それが思い出されるのであればいっそのこと、なくされて白紙からはじまった方が、無垢な感情を抱かれるだろう。
「おれは、一からはじめたいんだよ」
今度こそ八左ヱ門の隣に立てるように。
久々知は八左ヱ門に意識してほしかった。
それも変に思われず。
だからこそ雷蔵に引き合わされたとき、想定していた以上に早い遭遇に、久々知は心臓が飛び出しそうになった。表情筋の硬さを級友によく指摘されていたが、そのときばかりは、己の表情の乏しさに感謝するしかなかった。
ホッと息つく間もなく、八左ヱ門は久々知の平常心を奪った。
目の前に自身がかつて書いた文字が出されたのだ。それには、いくら久々知とはいえど、口が開いてしまった。
「“いくさがたな”だよ」
―――八左ヱ門と目が合った。
沙羅双樹の花がひらいて、おちた。
八左ヱ門はどう思っただろうか?
おれのこと、ただの級友だとは思っていないだろうか。
それはいやだ。もうただの友愛は、腹に満たされている。欲しいのは、もっと違うものだ。それで満たしてほしい。
溺れるように、飽和してしまうほど。
久々知兵助が望んでいるのは、八左ヱ門の驚きだった。
「それを望むのであれば、お前の読みは当てっているだろうて」
はあ、とため息を吐いたのはかつての級友であった。
END.
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