その他 | ナノ


▽ A


 



寝泊りをしている薄汚い路地のホテルまで、そのまま屋根を歩いて移動した。
夜の散歩ってどこか楽しい気持ちになれる。雨が降った日なんて屋根のへこみにできた水たまりに星が映って、よりいっそう幻想的な雰囲気を演出してくれる。代償として歩きにくいという欠点があるが。



前を歩く弟にも同じことを言ってみる。


「えっ、いやだよ。カラ松とデートなんて」
「ランデブーをしたい年頃だろ、ふっ。遠慮しなくてもいいぞチョロ松」
「お前とだけはない。それだけは言ってやる」
「ひどい……!」


麻袋にはいった林檎を三日月に照らし合わせながら返事を返すチョロ松。なにをさっきからしているのだろうか。歩きにくくないのか、と訊きたいが、もしかすると林檎が満月に似ていると空想を楽しんでいるのかもしれない。ここは兄として放っておいてやるか、そう決めて視線を屋根の下に落とした。
木陰にある井戸の水面がわずかに光っている。今日はなんて素敵な夜なんだ。


そこで声を掛けられる。
納得したと言わんばかりの、呆れを含んだ声で。



「やっぱそうだカラ松」
「ん? どうした」
「……はじめに約束して、驚かないって」
「大丈夫だ約束しよう。で、どうした」


回答を寄越すより先に林檎が投げられる。


「これ、麻薬入りだ」


「えええええええ!!」
「ばっか! だから驚くなって、」


焦るチョロ松の声が聞こえたと思った瞬間、しまったと気づく。すると視界がぐるりと回って身体が動かなくなった。即座に目の前に、月に照らされたせいか蒼っぽい顔色をしたチョロ松が現われて、俺の脚を掴んでいる。どうやら今回は間に合ったらしい。
ふうっと聞こえない声で息をついていると、小声でチョロ松に叱られた。


「こらっ!! 言っただろ、驚くなって!」
『す、すまない―――』
「だいたい何度目なのこれ、てか重っ、なんでわざわざデカい剣になるんだよ!? なるにしても短剣だろ、ってか、自分が武変族ってことを忘れるなよ!!!」
『返す言葉もございません……!』


一気に罵られてしかもそれらが全部的を得ているために、こちらは何も言い返せない。そうじゃなくても言い返す気はなかったが……。





チョロ松が言う通り俺は、そしてチョロ松自身も、驚いたら武器になってしまう武変族だ。その名はもうこの世界で伝説に近くなっており、実際に見たことがある人間なんてそうそういないんじゃないだろうか。

族っていっているが俺たち自身、他の仲間を見たことがない。
いっそのこと武変兄弟って名乗った方が早いかもしれない。


その希少価値故だろう、俺達が武変族だと知った瞬間大抵の人間は目の色が変わる。
五年前の世界大戦で戦争孤児となってしまった俺とチョロ松を見つけてくれた、見ず知らずの優しい老夫婦も、俺達の正体を知った瞬間あの手この手で驚かし、挙句には地上曲芸として稼ごうとした。お金がなかったせいだろうとは分かっていても傷付いた。育ててくれた恩返しを何もしないまま、黙って家を出させてもらった。それからはいろんな地方を回っては泥棒をしてみたり、必要なものはちょっと借りたり(という名の盗み。よく追われたものだ)した。

そして珍しいものを好きになる金持ちという者は、存在する。
あるときその地方を牛耳る豪邸に呼ばれたときは流石の俺達もヤバかった。そのときに初めて人を殺した。


武器に変わるためには、何も驚かさなくてもよい。要は俺の心拍数が上がればいいだけで。それをどこの研究者が調べ上げたのか知っていた金持ちが、俺とチョロ松が格安ホテルに戻るのを待ち伏せして車に連れ込み拉致してきた。そしてそのままあれよあれよという間に服を脱がされ、危うくファーストキスを奪われるところだった。


なにがファーストキスごときと思うかもしれないが、侮るなかれ。

武変族にとってキス、つまり接吻は契約の証。身体のどこにしても同じだが、それを初めて行った相手と死ぬまで番にならなくてはならない。ちなみに解除の仕方は分からない。なんせ戦争孤児になったときに頭を打ったのか、親の顔も分からないほど記憶喪失になってしまった。そのため詳しい知識を聞く人が居なかったんだ。契約の仕方は本能に刻まれているらしく覚えていたが。










いつも迷惑をかけてしまって申し訳ないが、チョロ松に引っ張ってもらって、むくり屋根にまで引き摺りあげてもらう。

そしてやっと手を離しても大丈夫な位置を見つけられた。
チョロ松にお礼を言うと、「いいから今日はどれぐらいで戻れそう?」と訊ねられた。


『おそらく5分ぐらい、か』
「はいはいわかったよ、今日は短くてよかった」
『すまん』
「いいって、そんな気を落とされたらこっちもやりにくい。それに僕だってやることあるし。お互い様だろ」
『……銀河で産み落とされしブラザーがお前で良かったぞ!』
「はいはい。次そんなこと言ったら、容赦なく落とすからね」
『あ、はい』


歓喜余って感謝の気持ちを伝えると、照れているのかすぐさま厳しいことを言われた。いや今の目つき本当にしそうだったぞ。チョロ松は時々怖い。優しいけど。





それにしても林檎に麻薬とはどういうことなんだ。


『なんで林檎に麻薬なんて入ってるんだ』
「あらかじめ調査してたんだよ、僕」
『そうなのか? どうして教えてくれなかったんだ!』
「気が散って林檎盗むの下手こくだろ、アンタの場合!!」
『は、はい……』


傍から見ればチョロ松が独り言をいっているようにしか見えないだろう。
そんなチョロ松が言ったことは正論だ。なんせチョロ松が『林檎食べたい』と、いつもと違うことを言っただけで気になって身体が鈍った俺のことだ。作戦なんか知ったら、気になって足が動かなくなる。

やはりチョロ松は賢いな、感心する。


「林檎のここ、針サイズの穴が開いてる。きっとここから注射みたいなもので麻薬を入れたんだろう。相手は……そうだな、結構な魔法を使える」
『チョロ松より?』
「どうだろね。麻薬を液体にする魔力がある人で、なおかつこんな量作れるんだ。穴から匂いが漏れないように、魔法で蓋も作ってるし。医療系に行ったらさぞや売れただろうに、こんな悪事に手を染めて勿体ない」
『……お前だってそうだろ。魔力があるのに、こんな手裏剣の攻撃力アップにしか使わない―――そっちの方が勿体ないってものだろう』
「いいよ。だって僕はセンスないんだから」

逆探知や攻撃力アップはできるけど、それ以外はパッパラパーだから。


そう言ったチョロ松は悲観するわけでもなくただ事実を述べていると言わんばかりに、素っ気無く持っていた林檎を宙に投げた。くるくると回りながら重力によって落ちてくる林檎。
俺は寝転がっていた身体を起こして、そして右手を上げた。



ザクンっ。


「おみごと」
「お褒めに預かり光栄です」






元に戻った体で屋根の上に立つ。真っ二つに割れた林檎が両手にあるが、そのどちらも月明かりに照らされて綺麗な黄金色に輝いて見える。
たっぷりと水分を含んだ林檎はみずみずしい。喉が渇いた旅人に持って来いだろう。……いや本当に持って来いなのは、中毒者の方か。

ふんわりとした独特の芳香が風に乗せられて鼻につく。それを感じ取ったとき思わず、鼻が捻じ曲がるかと思った。


「な、なんだこれ」

おもわず手からそれらが零れ落ちていく。咄嗟にチョロ松が腕を伸ばして受け取ってくれたが、よくお前、そんな臭いものが持てるな。


「酷い臭いがする。まるで排水口にヘドロが詰まった臭いだっ!」
「普通の人には良い匂いに感じるんだよ、カラ松は鼻が良すぎる。僕も魔力がないと気づけないぐらいだったから……ふうん、匂いは良いな」
「におうなっ! 今すぐ捨てろ!」
「ダメだって! 朝になったら魔法省に持っていって、報告金をがっぽりもらう予定なんだよ!!」
「そ、そうか……でもそれにしても酷いな」


鼻を服の袖口で押さえるがそれでも酷い臭いは鼻の奥に残って、なかなか気分が良くない。麻袋に林檎を返すチョロ松の意図がやっと見えてきた気がした。


そういえば最近、魔法省も名誉を取り戻すためか麻薬の取り締まりに力を入れ始めたと風の噂で聞いた。とはいっても旅人である俺達には、はっきり言ってこの地方の事情なんて知ったことじゃない。
ある程度の食糧が確保できて、格安のホテルがあれば十分……ベッドが二つあるとなおよし。理由は単純に、最近普通サイズのベッドをチョロ松と分け合って寝ることが増えたからだ。

背に腹は代えられぬ。
潔癖症の気があるチョロ松をどうにか説得してベッドにあげてもらっているのだ、ずっと床はきついからな。
しかし何よりもの問題は、床で寝ていると必然的に聞こえてしまうことだ。ナニをって……そこは安っぽいホテルのこと。他の部屋のカップルが愛の営みをしているのが嫌でも聞こえてしまい、気づけばまた武器になっていることがしばしばある。そのためチョロ松も譲歩して俺をベッドにあげてくれるようになった。


 









俺とチョロ松は日々思っていることがある。
それははやく番を見つけられないか、ということだ。

番という存在は本当に偉大なもので、その番がいればふとした瞬間に武器にならなくてもよくなるのだ。つまり番がキスをした時、その時だけが俺たちが武器になる瞬間。もしも番ができれば、こんな不便な思いもしなくてすむということだ。
それに俺が思うに番側にも利益があると思う。なぜなら俺たちは、自分でいうのもなんだが武器としては相当強い。武器としてのつからもそうだが元から知能付きの武器なんだ、そんなお手軽商品が他にあるだろうか? 今まで俺がアタックしてきたカラ松girlだって、きっとこれを知っていたら番になってくれただろうに……言えるはずないのだが。というか、女性が持っていても使い道があるのか…?


しかしながら、そのためには気を付けなければならないことがある。
何度もいうが、俺達武変族は絶滅危惧種の存在で、そしてまた戦闘民族でもある。つまり闘うことが何よりも得意な部族。

武器にならずとも実はけっこう強い。

だからこそその力を使う者は必ずしも良い方に持っていける人間じゃないといけない、そう俺とチョロ松は心に決めている。自分の私利私欲のために力を得ようとしている人間とは絶対に番にならない。いくら俺がただの道具にしかすぎないと罵られようと、その意志だけは貫き通す。たかが道具にだってプライドがある。別に俺はこの世界が嫌いじゃないんだ、むしろ、チョロ松と晩御飯を食べて文句を言ったり窃盗をしたスリルを味わったりできる、この世界が好きだ。だからこそ世界を終焉に導くような……国を壊そうとするような、邪な考えの輩にはこの武変の力を、びた一文も貸してやるつもりはない。



とどのつまりは、主人を探しているのと同じ。
いつか英雄のような正義感のある主人と世のために立ち上がることを夢見ているのだ。そういうと、チョロ松は馬鹿にしたようにため息を吐くのだが俺はまだ諦めてないぞ。





「よくもまあ……あんなひどいこと、人間にされといて、まだ信じようと思うな」
「信じてるからな人間を」
「―――カラ松のそういうところ、僕はすごいと思うよ」


再び歩み始めたチョロ松の背中に揺れる麻袋から、また腐臭がする。まるで彼の背中から離れないといっている悪霊が見えて俺は目を擦る。……なんだ、見間違えだったらしい。
武変したときに屋根に落ちたらしいサングラスを拾い上げて、その背中を追うことにした。









 *








朝。太陽がもはや頭の上に上りきった時間まで寝て、目が覚めても鼻の奥の粘着質の悪臭は消えていなかった。なんとも目覚めが悪い朝だ。時間的にはもはや昼過ぎだが。

いつまでも起きない俺を叩き起こしたチョロ松に連れられて、魔法省まで歩いていた。


この地域の地図すら頭に入っていない俺からすれば、よく迷わずにさくさくと行けるな、そう感心せざるを得なかった。もしかすると魔法であらかじめ調べていたのかもしれないが、その下調べの手際よさは舌を巻くものだ。俺なんて、道端に見つけたケーキ屋さんに目を捕られていたというのに。あっ3件目だ。



そして魔法省で情報と証拠品の報酬として大金をがっぽりともらい、そのお金で朝食兼昼食を食べようということになった。三食きっちりと食べれることなんて少ないんだ、金があるうちに栄養がある美味しいものを食わないと……いつまた事件に巻き込まれるかわからない。その原因は大凡自分たちにあるのだが。

俺がすぐに、「行きがけに見かけた喫茶店ならケーキもランチもあるぞ!」 そう提案すると、冷たい眼で却下された。



「それは、カラ松がケーキ食べたいだけでしょ?」
「うっ! ち、違う!」
「ならなんで喫茶店? こういうときガッツリ肉食べたいもんじゃないの、てかスタミナ付けて身体鍛えないとヤバいはずだろ。僕たち日頃から肉足りてないんだし」
「そ、うだけど」


じゃあステーキ屋ね。
強制的に決められた選択肢に唸っていると、チョロ松は呆れたようにため息を吐きながら歩き出した。しばらくしてチラッと振り返って、彼は諦めて俺に言った。


「……そこのケーキ、ステーキ以上に美味しいんだって」
「え」

思わず顔を上げると、もう五歩以上も離れたチョロ松の背中があった。いつも以上の早足に、顔がそっくりで双子だといわれる俺はピーンと来た。なんとなく本当の双子だという確信があるからこそ分かる。いまアイツ、照れてるんだ。
嬉しくなって走って駆け寄ると、横腹を突かれた。やっぱり照れ隠しなんだろう。


「美しい舞い姫とランチと行こうじゃないか!」
「その言葉……二度と言うなっていったよな、クソ松」
「す、すみません」


本気で嫌だったようでチョロ松に凄まれた俺は、謝りながらも嬉しさによってニヤニヤとしていた。つけたサングラスで顔は隠れているだろうか? そうじゃないと、喜んでいるのがまるわかりになってしまう。それは嫌だな……少しぐらいは兄として冷静にいたいものだ。しかしながら、弟の心遣いに嬉しくならない兄なんて、いないんじゃないか? すくなくとも俺は気分が良かった。



「でもありがとうな、チョロ松!」


浮かれていた。






だからだろうか?


普段は人前で口にしない互いの名前を、気安く呼んでしまったのは。











「―――おい」

魔法省からいくつか通りを挟んだところ、隠れ家的なステーキ屋に入るための裏路地に足を踏み入れたときだ。背後から声がした。


「……なんだ?」


もとから存在に気づいていた俺たちは、今気づいたとばかりに肩をビクつかせる演技をし、おどおどと振り返ってみせる。何の用かは知らんが、少なくとも良いお誘いではなさそうだ。相手はマスクで顔を隠していて分かりずらいが、背丈と声から推測するに男。俺と変わらない歳に見える、とはいっても雰囲気でだ。
そんな相手が俺達をデートに誘ってくるはずがない。することといえば、リンチしてお金を巻き上げることだろう。運が良ければ道案内か?


あんまり期待できそうにないが。


いつも通り斜め前にいたチョロ松に視線で合図を送り、もし何かあったときはすぐに応戦できるようにする。



「聞いてんのか、そこのクソだっさいグラサン」
「だ、ダサい……何の用だ?」

 
悪意があるのかないのかマスクと前髪の間から見える紫色の目が、蔑んだ視線を送って来る。え、何か悪いことしたか?
 
そう心配になって来るが何も心当たりがない。質問をしてみると、


「質問を質問で返すな、脳ミソ筋肉」
「え、え―――」


なんの回答も無しに自分の質問にだけ答えろと指示してくる。な、なんて酷い奴だ……。


「聞こえてんの」
「きこえて、るが」
「じゃあ最初っからそう言えよ」





「まーまー。そうカリカリすんなって、イッチー」


新しい声が混ざる。気配に、今度は、本気で気づけなかった。
 
焦ってマスクの男の後ろを見てみると、いつの間にか壁に背を付けた赤いバンダナの男が立っていた。青交じりの灰色のフード付きのチョッキの上に焦げ茶色のベストを羽織り、一番下にワイシャツを着用している。腰には大きめのベルトが二つほどあり、その片方にはポーチがついてありそこに銃が入っているのが見て取れる。ベストのボタンの横には火薬が入っていると思われる小さめの筒が三つ。腕時計の代わりに方位磁石がついてある、もしかして海賊の系統か?
 
相当の手慣れなのだろう、余裕ぶってこっちに笑いかけてきた。
 

……いやコイツ、こっちというか俺の隣を見てないか。
不思議に思って隣を見てみるとチョロ松も同じことを感じたのか、膝をゆるく曲げて一歩後ろに引き逃げる体勢を即座にとっていた。コイツら手練れだ―――食欲が満たされていない今の段階で、真剣にやっても勝てる相手じゃ、ない。
よく見てみればマスクの男の方もしっかりと武装していた。
ロングコートかと思っていたが、あれは白衣だ。白衣の下に黒色のベストを羽織っており、その下に白いTシャツを着ている。赤いバンダナの男と同様に二つのベルトを着けているが、前者に比べてやや細いモノクロのベルト。またジーパンを穿いたところに紐が張り巡らされており、その所々に試験管が設置されている。ここから見ても、五本はある。

想像するに赤いバンダナの男はスナイパーじゃないか。そしてこっちの紫色の目を持った白衣の男はソーサラーじゃないか? ただの魔法使いにしては獣の臭いが強すぎる。一度や二度ほど悪魔を呼び出したような臭い……一般人がしないような目をしているわけだ。


なんのために俺たちに声を掛けてきたのか、理由はわからない。しかしサシでやって勝てるような相手じゃないのに逃げないってのも、馬鹿だろう。君子危うきに近寄らず――ってな。






「ねえ」

 
冷静になれと言い聞かせて観察していると、白衣の男が声を掛ける。感情を読めない声。


「だから聞いてんのかよ」
「っあ、ああ」

一歩ずつ下がろう、チョロ松に矢羽音を飛ばしていると先に男が詰め寄って来た。しまった! 心拍数が上がる。非常事態という現状に胸が痛くなる、すると隣のチョロ松も同じように足が震えてきていた。最悪な事態だ……ほんと、金持ちの家に連れ込まれたとき以来じゃないか?

 
お腹が減ってなければ体力も万端で戦えるのに―――嗚呼もう、しょうがない!
 
腹を括った俺が咄嗟にチョロ松の方を向き、両手をさっと上げた。
その手をチョロ松の顔の前にまで持ってきて……ぱんっ! 猫騙しをした。するとその瞬間。
ぼわんっ。変な煙が立った。
人ひとりが隠れられそうな煙だがこんなもの、それこそ本当の猫騙しにしかなりゃしない。白衣の男がすぐに試験管のうちの一本を取り出し、それを手際よく撒くと辺りの霧はいっぺんにして晴れ、元の薄暗い裏路地が広がった。
 
しかしそこに俺の弟の豹変した姿があった。



「……なにその銃」
「生憎だが俺はお前たちと話したくないんだ。ここから逃げさせてもらうぞ」


目を細めた白衣の男が何かを言う前に引き金を引こうとする。





が、その瞬間すでに銃声が響いていた。

 
凄まじい破裂音。
指の先がわずかに熱を持って痺れている。


「いや〜悪いね、ほんとは撃ちたくなかったのよ? いやまじで」

遠く離れた赤いバンダナの男が、いつの間にか引き金を引いていた。銃口に立ち込める煙がそれを証明している。
ハッとして手元を見るともうそこにはチョロ松は居なかった。チョロ松は銃となり、そして地面で側面を傷付けられていた。脳内にチョロ松のうめき声が響く。


『ぃ、ぐ……ぁ…』



「ちょ、チョロ松っ!!」
「ごめんね〜無傷で話し合うのが当初の目的だったのよ。でもさ、そっちのサングラスの君がさ〜」
「っ、くそ!!」
「うーわ、口悪っ」
「だまれ!! チョロ松ッ」


急いでチョロ松に駆け寄り、彼の傍にしゃがんだ。するとまるでそれを見計らったように髪の束を上に引っ張られる。そのまま強い力で転ばされ、地面に尻もちをついた。
俺は後転しそうな身体を手で止めてから、転ばしてきた張本人をキッと睨み上げる。するとそこにいた白衣の男がにへらっと笑いだした。
 
な、なんで笑ってるんだ―――気持ち悪い。



「あんたのそれ、イイね……もっとやってよ」
「はあ……?」




何を言っているんだ?
 

後ろ手をついて白衣の男を見上げていると、気づけばチョロ松から目を離してしまっていた。頭の中に突然うめき声が表れる。





『やめ、ろ……舐めるな』


―――なめる? 

そう思って声のする方を見ると、どういうことだ。赤いバンダナの男がチョロ松を舌で舐めているではないか。しかも傷付いたところを何度も何度も、抉るようにして。
 
その度に悲鳴が上がる。

しかしその声は俺以外には聞こえないのだろう。聞いていて胸が張り裂けそうになった。


「っ、やめてやってくれ!! チョロ松をはなっ」
「なーなーこれ、どうやったら契約できんの〜?」


「『は?』」

俺とチョロ松の声が重なった。
……いやいやいや。今なにか、信じられない台詞が聞こえたような、気が。


「だってさ〜舐めたら契約できると思ったんだけど、おっかしいな。キスおっけーなんだろ? なら、舌でもよくね?」
『ふっざけんなよ!! このクズ、誰がお前なんかと契約するか……!』
「俺さこの銃、気に入っちゃったんだよな。だから契約してもよくね?」
『ぶっ殺すぞッ!! 生憎だな武変中は契約できない仕様になってんだよ、ばーかばーか!!』



「へえ……じゃ、はやく解いてよ。チョロ松」


『な、んで―――きこえてんの……?』

男の台詞にチョロ松と同じく目を丸くしていると、ふと首に変な感覚が広がった。首を絞められるのとは違う、酷く生々しい感覚が。身を焼くような熱を持ってして。
その瞬間。
鼻いっぱいに薬品臭いにおいが広がっていたのが、一気になにも臭わなくなった。まるで魔法が解けたみたいに。武変族の呪いとしての鼻の良さを、失ったみたいに。
嫌な予感がして頭を横にすると、そこから顔がにゅっと出てくる。そしてその顔がさっきと同じように、にへらっと笑った。
 
恐ろしくも、俺とよく似た顔が。




「契約ってこれでいいんでしょ。はい、完了」


肩から前にまわされた腕を振り払う力が、でない。
それは、契約した番を主人として傷付けられない証拠だった。






END.

  

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