今日は何の日? | ナノ


▽ B





家に帰った月島を待っていたのは兄だった。
何年も先輩社会人である彼と実家以外で会うこと物凄く珍しいことだ、というかなんで勝手に一人暮らしのところにくるんだ。そして勝手に入ってるんだ。やっぱり合鍵を渡すんじゃなかった……と後悔しながら、リビングに寝転がる兄に声を掛ける。

「いつ来たの?」
「お〜おかえり蛍」
「うわ滅茶苦茶飲んでるし……」
「帰ってくんの遅かったなあ」
「勝手に来たからデショ。言ってくれれば早く帰ってきたのに」
「それは悪かったな〜」

と言ってグハハと豪快に笑う兄はいつもより増してテンションが高い。
何かいいことがあったのだろうか、そう訊ねようかと迷って面倒な気持ちが勝って止めにする。面倒事は職場だけで十分だと思う。なにも家に帰って来てまで考え事をする必要はない、と。
そう思うと脳裏を過るのはあの光景しかない。―――今日教え子のひとりとキスをした。
あれは事故だそうとしか思えないし、相手だってそう理解しているはずだ。なのに一番納得していなかったのは月島自身だった。月島は教え子、山口に生徒としてではない感情を抱いている。それは月島が一番よく分かっていた。これが人に良い顔をされない感情だということも含めて、全部。山口が一年生だった頃は別にそんなことはなかった。まだその頃は授業を持ったこともなかったし廊下ですれ違ったくらいじゃ、言い方は悪いが山口は目につくような生徒じゃない。それが変わったのは二年生のとき。初めて授業を持った時だ。

『あ、ぅ……』

今にも泣きそうな目で教科書を握りしめて立ち上がったその姿は、まるで公園で虐められる小学生のようだった。ビクビクと震えて今にもお漏らしをしそうな顔。顔色は相当悪かった。正直月島も、

(なに? 僕のこと悪代官か何かだと勘違いしてない……?)

と気分は良くなかった。それでも憐れに思わないでもないわけでいつもより割増で声を和らげ、話しかけたものだ。




ふと兄がむくっと起き上がって笑った。

「最近どーよ?」
「……なにが」
「愛しの、た・だ・し・ク・ン!」
「っ、別に」
「図星かあ〜ははっ、なんか蛍そわそわしてんもんな」
「うそ」
「ほんとー」

また兄は笑った。酒を飲んだ後のこの笑い上戸っぷりは本当にいただけない、しかも口も軽い。面倒なことこの上ない……月島は頭を抱える。
この兄は月島の本心を見抜いていた。昔からそうだ。小さい頃から月島がなにか困っていたり、どうしようかと迷っていると、誰から聞いたのか月島の元にとんで来るのだ。そして大抵何をするわけでもなく―――ただただ背中を押してくれた。それで成功するのだから兄とは不思議な存在だ。
今回の山口の件もすぐに兄にはバレた。しかも一年以上前にだ、正直敵わない相手だと思った。
それでも兄は男同士のことについて馬鹿にはしなかったのだから、寛大な人間なのだろうと感心させられた。……きっと自分が彼の立場だったら眉を顰めただろうな、と思ったからというのが一番の理由だがそれはまあいいとして。
それからというもの兄は来るたびに山口との進展を聞いてくる。
きっと今回もその延長線上だったんだろう。

「山口が魔性すぎる」
「それは初対面からだろ〜? なんだっけ、あれ。提出物のときのはなし」
「……泣いたやつ?」
「それそれ! 可愛いよなあ」
「やめてよ、山口を可愛いって言うの」
「おおっ一丁前に嫉妬してる」
「違う!」

月島が声を荒げれば荒げるほど、兄はニヤニヤと笑う。にんまりと笑う姿がどこぞの大学での先輩を思い出した、黒猫に似たあの先輩を。

「だいたいあれは、嘘が下手なくせに騙そうとした山口が悪い」
「それで泣いちゃうんだから可愛いもんだっての」
「……まあね」

小さく零すとまた兄がニシッと笑った。
……本当にもう叶わない人だ。




一年ぐらい前のこと山口が初めて化学で赤点を取った。その時の化学は確かに難しい内容だった。シス=トランス異性体だとかアルデヒド基の結合だとか、ちょっと捻った問題を出したのだから月島も意地悪だ。そしてその際に赤点保持者の生徒に出した宿題がなんとも鬼のような量だったのだ。
本音を言うと全部できるわけがなかった。山口だけにかぎらず、誰もが。
それを山口が朝提出しに来たときのこと。提出指定だったのは化学問題集Uの方だった。なのに山口は化学問題集Tをもってきた。

『ぁ―――ご、ごめんなさっ』

ガクガクと震えながら山口は、問題集の中身を確認している月島の姿を見ていた。朝の廊下は誰も通らない。そのせいで山口の掠れた声は響いた。

『なにコレ?』
『ま、ちが……えて』
『ふーん』
『あぅ……ごめんなさいっ』

それから山口は泣いた。
声は漏らさずに涙を一滴二滴零して、眉を寄せて泣く姿はまったくもっていじらしかった。だがしかし月島は知っていた。この問題集がわざとに間違えられたものだということを。
そりゃそうだ問題集Uは終わるはずないのだから、家に忘れて猶予を貰いたい気持ちは分かるし。なによりさっき玄関で聞いたのだ。”忘れたふりでもしようかと思って……”と友人に言っている彼の言葉を。
でも月島は叱るつもりはなかった。
むしろどう出るのかと、楽しみに見ていた。……のだけど。

(あんまりにも本気で泣くから―――ほんと厄介だ)

大方山口のことだから途中で本気で申し訳なくなって涙が出てきたんだろう。泣き脅し作戦というより、嘘を吐いたことへの謝罪の涙。ちゃんと月島はこの臆病な生徒の本心を見抜いていた。そしてそのうえで気づかないふりをして告げてやったのだ。

『もういいよ。次のテスト頑張りな、時間ないし提出はもう無しでいいから』

そう言ってもなお泣き止まなかった山口はやっぱり、罪悪感に溺れていたんだろうなと今になって月島は気付いた。同じことを兄に話しても、兄は兄で、
「可愛くてよろしい!」
と上機嫌だったのだから兄弟は兄弟なんだな〜と思わざるを得なかったのだが。








「蛍は、忠くんに骨抜きだからなー」
「違うってば」
「じゃあなんで結婚しない? もう28だよお前、イイ歳だ」
「……うるさい」
「また図星だ」

クツクツと喉の奥で笑う兄の声が耳障りに感じる。こんなことになるなら兄の努める大学の実験、上手くいかなかったら良かったのにと疎ましく思う。
それでも兄がご機嫌だとこう自分までいい気分になってくるのだから、月島も結構のブラコンなんだろう。本人は気付いていないのだけど。
テーブルに並ぶできあいのオードブルを見るに晩ご飯は心配しなくても良いらしい。ちょっと手が付けられたぐらいで大方残っているそれを見て考える月島は、来ていたスーツをハンガーに掛ける。暑くなってきたここ最近Yシャツに変えようかと迷ってそのままにしていたせいか、首筋に汗をかいていた。気持ちが悪いな……眉を顰めていると、兄が口を開いた。

「あ〜忠くん会ってみたいな」
「……そういえば山口。進路希望で兄ちゃんの大学出してた」
「え? マジで」

なら会えるかもしれないな、だなんて嬉しそうな顔をしてまた酒を煽るもんだから月島はくすぐったくなる。どこまでも過保護な家族の中で特に自分と歳が近い兄は、山口を家族に迎え入れる気満々なのだ。その心は『弟が選んだ相手なら間違えないだろう』って、……嬉しかったとは言えないクール系の月島だ。
誤魔化すように月島は唇を尖らせる。そしてコショコショと小さく、
「べつに山口ぐらい……」
と言うと今度は兄がキョトンとした。

「そういや告白すんの?」
「は!?」

月島が鞄を落とした。そのまま素っ頓狂な声で叫ぶ。

「なななにバカなのっ、は、告白うぅッ!? するわけないじゃん相手生徒だし!」
「いやいやテンパりすぎだから。別に今すぐって訳じゃねえって、ほら。卒業したら他人になっちゃうだろ、蛍?」
「それは……」
「卒業まであと半年、はやいぞ〜」

空の缶を集める音にまぎれて兄の声が届く。
感慨深そうな声は適当なことを言ってくれるが、その実確かに卒業まで時間がなかった。卒業したって生徒が訪れてくることはあるが、この月島という男にかぎってはそんな相手がいるとは思えない。特に、勝手に月島が気に入っているだけで山口にしてみれば迷惑ととられてもおかしくない現状では。

……こくはく?
馬鹿じゃないの、上手くいくはずない!

今まで兄に対してこんな汚い口をきいたことが無かった月島でも、思わずぽろっと言ってしまった。それぐらいには気が動転していた。
簡単に言ってもらっては困るのだ。そんな告白なんて……今まで月島は、されたことはごまんとあれど『したこと』は一度もない。タイミングも場所もなにもかもわからないし、オッケーしてもらえるサインなんて分かりっこない。秀才な月島ですらそれは難解な問題で。
もしかして今まで僕に告白してきた女の子は、こんな気持ちだったのか―――なんて感心したところで告白する勇気も持てず。


「こ、この歳になって……馬鹿馬鹿しいよ」

そう言って月島は鼻で笑ったのだった。
自分の生徒に骨抜きにされた自分を、鼻で笑って。





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