今日は何の日? | ナノ


▽ A


 

厳しいというか冷たいというか―――それが月島先生に対する生徒全体の印象だった。
時にはその容姿の美人さに目を引かれて『あたし先生の彼女、狙おっかな?』と言い出す女子もいたが、大抵の生徒はその名の通り月のようにひんやりとした人柄に恐れ戦いて、先生と一線を画していた。
月島の授業では事前に教科書を読んでおくことが必須だ。月島は読んでこなかった生徒に対しては容赦のない扱いをするのだから、そりゃ怖いだろうなというのが山口の感想だった。
怒るわけでも叱るわけでもないのに怖く感じる、月島の授業は化学が苦手な生徒にとって地獄の時間だ。そのせいか化学が苦手になった者は多い。かくいう山口もその口だった。もとから日本史だの世界史だのという暗記教科が得意だった山口からしてみれば、理論がすべてな数学的教科はちんぷんかんぷん……。
そのくせして何故か山口は、こう呼ばれていた。

『月島先生のお気に入り』

つまり読んで字のごとく、気に入られているということだ。
授業中の月島はHRのときよりも簡潔で、すがすがしいほど素っ気無い。予習が当然の授業の中で今さらな説明を省いた結果だから、当たり前ともいえるのだけど……。それにしても、素っ気無い。
まるで猫みたい、いや爬虫類の肌みたいだね!
とは谷地さんの台詞である。

それが極稀に異なる場合があるのだ。
……山口と会話するときだった。

普通生徒が突然の問い掛けに答えられないと、「はあ? 君本当に予習してきたの……もういいよ座って」と呆れたように言う。
それが山口に初めて当たったときのこと。あまりに挙動不審で震えていた山口にクラスメートたちは、これはやばいと焦った。なんせ面倒なことが嫌いな月島なのだから。何の反応も返ってこないのは一番時間が無駄になることであって、山口のその行動は自ら不機嫌にしに行くようなものだろう、と予測がついたからだ。クラス中が、
『いいから早く謝れっ、そんで座れ……!』
と心の中で応援していた時だ。
月島はため息を吐いて言った。

「取って喰わないよ山口、安心して。落ち着きなよ」
「ぇ……?」
「座っていいよ」

たかがそれだけだ。
いや、むしろそれだけだったのだ。
呆れたようにと言うよりは可哀想だというため息を吐いて、座らせた。素っ気無いながらもちゃんと生徒のことを考えた台詞……それがどんなに珍しいことか、月島の言葉終わりにざわめいたクラスから予想はつくことだろう。
そんな事件(生徒達からすれば大袈裟ではない)から、ずっと月島は授業中に当てるだけでなく、

「ちょうどいいところに山口いるね。推薦組の城田と安川……あと谷地、呼んできて」

と職員室で用事があった山口をわざわざ遠くから呼んだり、

「ふーん、ちゃんと掃除してるんだ。偉いじゃん山口クン」

そう掃除中にトイレにまで様子を見に来たりした。
これはおかしいぐらいに気に掛けられている、とは流石の山口でも気づいた。
ついには月島の彼女の座狙いの女子生徒にすら、「山口と中身入れ代わりたい……いや立場だけでもいいから、本気で代わりたい!」と文句を言われる始末。いや俺も代わってほしいんだけど―――と言ったら終わりだとわかっているので、そこまでは言わないが。
それから時間が経つと今度は砕けた態度になって来た。もちろん月島がだ。
これには流石のクラスメートたちも憐みの目を向けた。主に、雑用扱いだねご愁傷さまといった意味で。いや違わないんだけど別に俺は手伝ってるだけで雑用じゃない! と山口は思っているが時々本当に不安になって、『俺パシられてるのかな?』と気にしていると月島は、山口の露わになった額を日誌でぺしんっと良い音をたてて叩き言った。

「裏の学級委員長みたいなもんだよ。授業が円滑に進むための……的な?」

そう言われてすぐにやる気がアップした山口は、やはり山口だった。うん自分が一番よく分かってる。単純だってことは、でも仕方ないじゃないか。この歳になって褒められることなんてそうそうないんだし。
とはいってもやっぱり少しは山口も気にするもので、月島の異様な自分への懐きよう? 甘さ? は何からくるものなのか。悪い気はしないものの周囲からの不思議がる視線に軽く面倒になっていた。おそらく月島だって山口を少なからず嫌ってはいないはずなんだけど、かといって勉強ができて将来有望だから期待してる! ってわけでもなさそうなのが不思議だった。
確かに山口は頑張り屋さんだ。
間違えた問題は丁寧に解き直すし、分かろうという努力はする。解けた友人に解き方を聞きに行くしときには先生のところにも行く。でもそれは進学校の風潮として当たり前のことだ。山口だから〜というよか、学校全体の作りがそうだからというところが大きかった。……ではなぜ?

わからなかった。





そのせいで未だに変な緊張感が山口の中にはあった。対月島先生という緊張感が。
それをいざ知らず、掃除を始めてしまった月島は箒を忙しなく動かす。そのたびに山口は上履きを擦り合わせ、居心地が悪そうに身を縮こまらせるのだった。
そういえば月島は掃除が大好きだ。先生が自分でそう公言している訳ではないのだが、クラスメート含め学校で化学を持ってもらった生徒は誰しもが知っている常識だった。なぜかは授業での台詞による。
ある日の授業中に黒板に書きものをしようとしてチョークを手にした時だ。月島は黒板の桟に手を伸ばしかけ、動きをサッと止めて言った。

「……使う人間が気分悪くするような掃除の仕方、しないでくれる?」

その声の低さたるや、背筋が凍るような声色だった。その日から影で”潔癖症の月島先生”と呼ばれるようになった。言わずもがな黒板掃除係は命をかけるようになった。

(そのせいで俺の掃除場所が教室……しかも黒板限定になったとか、悪意しか感じないよ)

なんとも分かりやすいクラスの連帯感に苦笑いにしかでなかった山口は、良い人と分かる反応で、断り切れずにここ3カ月間ずっと教室掃除だ。もうそろそろ飽きてきたと思わなくもないが、頼まれればまた二学期もするんだろうなと思う。
ふと山口の視界に箒の先っぽが入る。掃除が終わったばかりの放課後の教室を掃除してるんだ……そんなに汚れが気になるのかな? と月島の行動を不審に思う。するとツンツンと足を突かれた。

「あし、上げて」
「はっはい! あの……ここまで掃除するんですか?」
「汚れてるんだから仕方ないデショ」
「はあ」

両足を揃えてあげれば机の下を箒が行ったり来たりしてゴミを浚っていく。いいよ、と言われてやっとのことで足を下せた頃には、山口の心臓はバクバクと音をたてていた。気付かないうちに息を止めていたみたいだ。緊張のし過ぎは、本当に良くないと思う。
一番前の席の自分の机を綺麗にしてから床を一掃していく月島。
山口はその、窓辺まで行って戻って来るぎりぎりまでその後ろ姿を観察して、彼が振り返る直前にノートに視線を逸らした。またリターンしていく姿を軽く振り返って見て、それからノートをみて……を繰り返す。
動くたびに月島の首筋にかかる金髪がさらさらと眩しいことに気づく。そういえば入学式に比べてここ三年ほどで伸びているような、気もする。

(……切らないのかな?)

思わず聞きかけて、慌てて手で口を塞ぐ。
今は勉強してるってことになってるんだから―――いや、嘘ではないんだけど。変なことを訊ねると叱られてしまうような気がした。今まで叱られたことはないにしろ、相手は怖い印象が強い先生だからきっと余計なことはしちゃいけないし訊ねるとダメなんだ……と思う。
すると声を掛けられた。どこか不審に思っている声色だ。

「―――何してんの。見てると鉛筆、動いてないみたいだけど」
「え、いや……ははは」
「遊んでんの?」
「いいいっいえ!! 先生はその―――掃除好きですよ、ね」
「はあ?」

どうにか怒らせない話題、と思って選んだ質問がどうしてかお気に召さなかったようだ。振り返った先にいた月島は顔を存外に顰めていた。心底ふざけるなと言いたげな顔だった。キュッと山口の心臓が縮こまる。
思わず恐怖から口がへの字になったところに、月島が近づいてくる。
「ひィっ!」
喉から変な声が出る。
月島の長い脚を使えば距離はあっという間に詰められた。泣きそうに身構える山口。その元にやって来た月島は顔をズイっと寄せて、額がぶつかりそうなほどの距離で話し始める。

「僕は掃除が好きなんじゃない」
「は、はい」
「勘違いしないで、別に掃除なんて好きじゃない」
「ひゃい……!」

舌を噛みそうになる、もう半泣き状態だ。

「君たちが下手な掃除するからだよ。授業でみんな使うところなんだから綺麗な方が気分がいいデショ、なのになんなのこのゴミ? 授業する前から気分悪いよ」
「ごもっともです……」
「わかったの?」
「はいいい!!」
「僕は好きでこうやって掃除してるんじゃないの」

分かったならもっと腰入れてやりなよ。そう言いながら身を起こそうとした月島をみて、ホッとした山口が下ろしていた顔を上げようとしたときだ。タイミングがずれて月島の顔すれすれを鼻が掠める。驚きで固まった山口だったがその直後、唇までへんな感覚が走る。
「へっ」
可愛い声を上げた山口の目に入ったのは、同じくキョトンとした月島の顔だった。
こんなに間抜けな先生の顔は見たことない―――そう立ち尽くした月島を見上げて山口は思う。そしてすぐに、首元がカッカとしはじめた。

「へ、ぁ……え? いま、え」
「―――忘れろ」
「え」

顔が熱いと感じるより早く、月島がそう告げる。驚いて視点をもう一度彼に合わせるが、もう月島はキョトンとはしておらず顔を顰めていた。その表情がさっき起こったハプニングを肯定しているように思えた。
……キスだ。
バードキス、ちょっと触れただけだったけど確実に唇同士がぶつかった。あれはきっとハプニングとしかいいようがない出来事だ。顔の距離を近づけすぎた月島の、事故の可能性を見通せなかったという失態。……こんな誰にも言えない事故。
そうして悶々と悩むより早く山口のハプニングは忠告された。忘れろ、と。


「あ、の」
「塵取りと箒、片付けて」
「あのっ、」
「戸締りして帰って」
「―――はい」

素早く踵を返す月島。気付けばもう教室のドアをくぐろうとしていた。
まるで逃げるようだ……山口はそう感じる。一度もこっちを振り返らない姿も猫背を固くした態度も、駆け足で去っていくその影も。全部全部無かったことにしてくれと頼み込んでいるように見えた。……なんだそれ。山口にしてみれば、それがとっても滑稽な姿に思えた。
別に言い訳なんかせずに、叱ればいいのに。

(不注意だって……汚い顔を引っ付けるなって、叱ればいいのに)

ホントなら感情に任せて叱ればいいのだ。
授業で見せるあの冷たく突き放す態度を出せばいいだけなのに、どうして―――あの人は苦しそうな顔をして逃げたのだろうか。わからない、と言ってしまえば簡単だ。俺も逃げればいい。
でも山口は逃げない……逃げなかった。

「なんだったんだ……」

そう言って机に突っ伏す。白紙のままのノートがかさっと音をたてて皺をつくると、寝転がった視界に膨張した横線だけが入ってきた。見ていると気持ちが悪くなる近さだ。まるでさっき先生の目を見た時みたい。
ふと寝言のように呟く。

「かっこよかったな……月島せんせい」 

いつもは眼鏡に隠れたせいで見えずらくしかも見つめるなんてできるはずもない怖い先生を、あんなに間近で見たのは(当たり前だけど)初めてのことだった。山口は、苦しくなった肺を制服の上から掴む。
ふとあの言葉を思い出した。

『月島先生のお気に入り』

……やっぱり間違ってなかったんだ。山口は変に納得したように頭を抱える。謎が解けたぐらいじゃ心が休まるわけないんだ、こんな、知りたくもなかった謎が解けたぐらいじゃ。全然、安心なんかできない。

(本当の意味で気に入られてるだとか、一体誰に相談すればいいんだろう―――それに)

嫌だって思わなかった自分のことも含めて、誰に相談すればいいんだろう……。
時間は悩む山口を放ったらかしにして、下校時刻を知らせるチャイムが校内に響いた。




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