「ホントお前も素直じゃないねぇ」
「言わなくていいって。自分が一番よく分かってるから」
深夜1時、窓の外は大荒れで、あたしの心も大荒れだ。
そんな心情をぶつけたいのに、どこに、何にぶつければいいのか。その術を知らないあたしの行き着く先は決まっていつも同じ場所。
携帯の向こう、眠気を含んだ声が掠れて聞こえたのは1時間以上も前。今は、吐き出されたため息が呆れた色で鼓膜を揺さぶった。
「なーんで思ってもないこと言うかな」
「思ってるし、思ってたしずっと考えてたし」
「ならなんで掛けてくんの」
「………報告、しとこうと思って」
「別に次会った時でいいだろ、そんなもん」
「…………」
「自分から振ったくせにすっきりしないからオレに相談してんじゃねぇの?」
いつもみたいに強気で違うよ、なんて言えなかった。頭の中を見透かしたようなティキの言葉が図星だったから。
あたしは数時間前、長く付き合ってた彼氏と別れた。それも自分から一方的に。
理由は腐るほどある。どれが決め手になったかなどこの際どうでもいい。
遠距離なんて燃え上がるのは最初だけで確固たるものでもなければその内フェイドアウトしていくと思うよ。
むかっ腹の立つことを平然と言ってのけた同僚の言葉に思考が飲み込まれて気づいた。
今なら身に染みてわかるって。
愛だの信頼だの絆だの、そんなものがあったところで近くにいなけりゃ何の意味もないって。
「で?お前はどうしたいわけ?」
「どうもしたくない」
「それ本気で言ってんの?」
「本気で言っちゃいけないの?」
屁理屈ばかりを並べ立て、見過ごしてしまいそうな本心は行き場を無くすけれど。
だって、それじゃあどうすれば良かったのか。
10か月前に決まった彼の転勤と、任された仕事の重圧に負けたあたし。
着いてきてよ、向こうで一緒に暮らそうよと、真剣な瞳はつまりそう言うことで。
一番天秤にかけちゃいけないものをあたしはかけたんだ。
「そうやって意地ばっか張ってるとホントに取り返しつかなくなるぞ?」
「もうつかないとこに既にいるから大丈夫」
「アイツは飲んだのかよ、お前の言い分」
「知らない、ラインだったし、………既読にはなってるけど」
自分から断っておいて、そのくせ勝手に不安と不満を募らせた。
信用していなかったわけじゃない。端から疑ってかかってたらこんな長くは一緒にいない。
ただ、日々の生活で、どうしたってブレる時もある。それこそ引き金になり得る出来事なんて吐いて腐るほど。
何でこんな時に彼はいないんだろうか。
どうして甘えたい時に温もりが感じられないんだろうか。
なんで?
どうして?
あたしは彼を選ばなかったのか。
考えれば考えるほど拗れた思考はなし崩しに自分を最低な女に仕立て上げて。
それに耐えきれなかった。全部投げ出したくなった。自分勝手は百も承知だ。
「つーかお前、」
「なに?」
「さっきからキャッチ入ってんじゃねぇの?」
「…………」
「オレんとこも入ってんだけど、アイツから」
ああ、そうか。共通の友人とやらを持つとこういう現象も起きるんだ。どこか他人事のように聞いていたティキの言葉が、外から聞こえる雷鳴と重なる。
ザーザーと打ち付ける雨音は日付けが変わって強さが増した。
「出てやれよ、んでちゃんと話し合え」
「………」
「わかったか?」
「……うん、聞いてくれてありがと」
電話を切ってテーブルの上に。
深い深い溜息は、まるで罪悪感の塊だ。
自分の吐いた二酸化炭素が部屋の空気を重くする。
ちゃんと話し合えって、今更なにをどう話せって言うの。
あんな数行程度の文章で終わらせてもらえるとは思ってない。そこまで浅い付き合いじゃなかった。
遊びのレベルなんてとっくに超えてるのも分かってる。
それでも今は話す気になれないのも正直なところで。
そんな身勝手な思いなんて、誰も汲み取ってくれるはずもなく。
結局はさっきからずっと光りっぱなしの携帯に手を伸ばすしかなす術はなかった。
「………はい」
「なまえ?」
「うん」
名前を呼んだ彼の声。聞き慣れているはずなのに、別人のような覇気の薄い掠れたそれに胸がぎゅっとなる。
僅かな沈黙は互いの気まずさを膨張させて、目一杯膨らんで割れてしまう寸での所で彼が言葉を発した。
「ライン、読んださ」
「うん」
「オレ、なんかお前にやらかした?」
「ううん、なにもしてないよ」
そう、なにもしてない。ラビはなにも悪くない。
悪いのは全部あたしなの。
「嫌いになったさ?」
「………」
「それとも他に好きなヤツでもできたか?」
「………」
「なまえ、…………ちゃんと話してくれないと、わかんねぇさ」
電話越しで口を結ぶなんて卑怯なことぐらい分かってる。絞り出すようなラビの声は切なくて優しくて優しくて。
涙なんて出ないと思ってた。
感情任せに送ったとは言え、もう会えなくなるんだなと、ラビがいない未来を想像しても一滴もでなかった。
こんなもんかと嘲笑って胸が苦しいのをぐっと堪えた数時間前の自分より、今のほうがよっぽど冷静なのに。
目尻の端から熱いものがひっきりなしに流れてくる。だから話したくなんてなかった。
「なまえ、」
「………」
「ごめんな」
「なに、が」
なんでラビが謝るの。
いつもそうだ。この人はいつもいつもあたしを最優先にしてくれる。
それは物理的に距離が離れてからも変わらなかった。ワガママ以外の何者でもない要望だって言い分だって嫌な顔ひとつせずに。
なんなの、なんなのよホント。
頭の中でぷつりと切れた感情の糸を、あたしは止める方法なんて知らない。
せり上がってくる何かに背中を押されてしまえば、あとは滑り落ちるまま唇を震わせる。
「なんでごめん、なの。………なにがごめんなの」
キツかった。謝られるたび胸が痛かった。
会いたい、寂しい、傍にいてほしい。歪にそれらを口にした。平日のど真ん中で無理難題を押し付けるあたしにいつもごめんなって。
それでも止められなくてラビの思いを測りたくてそんな自分が大嫌いになった。
自分で自分を嫌うのはいい。
でもラビに嫌われるのだけは死んでも嫌だった。
それならいっそのこと離れてしまったほうがいいんじゃないかと思った、と。
「なまえ」
勢いで放った言葉は腹の底にあった時より音にしたほうが何倍も醜かった。
「ラビのことなんてこれっぽっちも考えてないの。あたしは自分の気持ちばかり優先してしまうの。こんな彼女、嫌でしょ?………だから、」
「その先は聞きたくないさ」
「なんで!」
「好きだから」
なまえが好きだから、それは飲めないさ。
顔の見えないラビが、悲しそうに笑った気がした。
カタカタと窓を叩く雨の音で、建て付けの悪いそれが揺れている。
腹を据えて気持ちを押し殺したくせ、部屋の窓と同じようにあたしの決意は揺れて揺れて今まさに倒れかかる寸前だった。
「自分ばかり優先でいい」
「なんでそんなこと言うの」
「だってそれって、ちゃんと好きだからそうなるんだろ?」
「………」
「んなの、嫌がるどころがオレはすげー嬉しいさ」
好きだから寂しい。
好きだから会いたい。
好きだから触れたくなる。
分かってても中々叶えてやれなかった、だからごめん。
ストレートに伝えられないあたしの思いはいつからか、摺れて歪んで形を変えた。
不安と不満で、これでもかと表面を覆いつくした硬い殻を破ってくれたのは、他の誰でもない、一番大好きな彼だ。
張っていた気が緩んだ途端に今までとは比べものにならないほど大きな罪悪感が湧いてくる。
今度こそ、素直にちゃんと伝わるだろうか。
「ラビ」
「ん?」
「ごめん、…………ごめん、なさい」
「謝るとこじゃねぇさ」
今度こそ、素直にちゃんと伝えたい。
「ラビ」
「うん」
「会いたいよ、次会えたらいっぱいぎゅってしてほしい」
「オレも会いたい」
だから会いにきたさ。
こんな時間に聞こえるはずのないインターホンの音。一瞬だけ跳ねた胸はドキドキするよりも嬉しさの方が勝ってる。期待していたわけでも勘付いていたわけでもないけど。願ってはいた。
「なまえ」
「な、ちょ、っと、なんでそんなびしょ濡れなのっ」
「あー、傘積んでなくて、駐車場からお前ん家まで歩いたらこうなったさ」
勢いよく玄関を開けた先、口角を上げたラビの姿に目が丸くなった。仕事が終わってそのまま駆け付けてくれたんだろうか。スーツが濡れて、元の色よりも濃くなってる。
水気を多く含んだ髪からは雫が落ちて、足元にはみるみると水たまりを作っていく。
ジャケットだけでも先に脱いでと催促をしてから、バスタオルを取りに向かおうとした体は腕を引いたラビに止められた。
「わりィ、ちょっとだけ我慢して」
「……早く着替えなきゃ、風邪引くよ」
「お前が言ったんだろ、ぎゅってしてって」
「……うん、言ったけど、」
だったらもう少しだけ、このままで。
濡れたシャツの水分があたしの部屋着に伝染する。
首元に顔を埋めたまま力を込めて抱きしめてくるラビの背中に縋った指が少しだけ震えた。
「冷たくねぇさ?」
「冷たい、でもあったかい」
「一緒に風呂入る?」
「うん、髪洗ってあげる」
「オレも洗ってやるさ、体の方」
「いいよ、いらない」
「だめ、ヒヤヒヤさせたお仕置きしねぇと」
今日寝れないと思うから、そのつもりで、なまえちゃん。
顔を上げて笑う彼に思う。
腫れぼったい目元を優しく拭ってくれる、素直じゃねぇのに何でこんな可愛いんだろうなと、頭をくしゃくしゃに撫でてくれる大きなその手を絶対に離しちゃいけないと強く心に誓ったある日の夜更け。
その数ヶ月後、住み慣れた町から出ることをあたしはまだ知らない。
すべて洗い流して抱き合おう
(ふたりで住むにはちょっと広すぎるね)
(これぐらい広い方がのんびりできるさね)
(それもそっか)
(あと他にほしいもんは?なんかあるさ?)
(んー、とりあえず今は大丈夫かな)
(オレは近い将来オレの苗字をお前にやりてぇさ)
(ん?なんか言った?)
(いや?なーんも)