36.開かない屋上の階段で
私は階段に取り付けられた木調の手摺りの染みをぼんやり眺めていた。
小さい斑点状のものから、何かの形に見えそうなものまでポツポツと点在している。
それでも汚らしく見えないのは木目の効果だろうか。
どちらかというと、よく使い込まれているという印象を受ける。
教室に戻りたくない、と私は思った。
このままサボってしまおうか。
いや、マルコは心配するだろう。
正直、他の人のことはわからないけれど、マルコだけは、私を疎んで何も言わないのではないと信じている。
私があんまり気にしているとわかれば、マルコの良心が咎めてしまうだろう。
階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
私はギョッとして身構える。
この先には屋上しかない。
そして、屋上へのドアは開かない。
それを承知で、誰が何をしに来るのだろう。
私と同じような目的だろうか。
それとも、マルコが探しに来た?
姿を見せたのは意外な人物だった。
「ここで何をしているのかな」
私は一瞬ポカンとして、それから慌てて立ち上がった。
別に悪いことをしているわけではないのだが、屋上というワードはなんとなく背徳感を呼び起こす。
「特に何かをしているわけでは…あの、先生はどうしてここに?」
スミス先生だった。
「その先に屋上しかない階段を上っていく生徒が見えて、しかもその生徒がなかなか下りてこないものだからね、もしかして外へ出たのかと思って確かめに来たんだよ」
私は首を傾げる。
「屋上には鍵がかかってます」
先生は大儀そうに顎に手を添えた。
「そう…だが、どうも合鍵が出回っているらしくてね」
「そうなんですか?」
「行方と出所を探している」
私は両手を広げてみせる。
「持ってません」
「そのようだ」
先生は頷いた。
これで誤解は解けたと思ったのだが、彼は立ち去る気配を見せない。
私はおどおどと先生を見下ろした。
先生は階段途中の踊り場に、私は屋上のドアの手前にいるため、そういう構図になる。
「あ、あの…」
「屋上に用はないのに、なぜクローゼはここにいるのかな」
「えっと…特に理由は…」
「考え事か?」
「あ…はい、まぁそんなような…」
「それは、キルシュタインのことかな?いや、彼とはもう大丈夫そうだからね。ということは、ブラウンのことか?」
「え…」
私は声を詰まらせた。
先生とは、朝礼の10分と授業で顔を合わせるだけだ。
ライナーの件に限って言えば、今日、朝礼で10分ほど顔を合わせただけだった。
確かに、ライナーの様子がおかしいのは側にいれば明らかなのだが、席に座って自分の話を聞いているだけの生徒の様子の違いに、そんな短時間で気付いたのだろうか。
しかも、今、私が彼のことを考えていることまで察してしまうなんて。
さすが――
さすが?
さすが――そう、教師なだけある。
「先生、よく見てますね」
「生徒のことだからね」
先生は階段を上がってきた。
私の横まで来ると、腰を下ろす。
「座らないか」
私は迷った。
確かに「さすが」とは思ったが、話を聞いてほしいと思ったわけではない。
それに、私は先生に物事を相談する習慣はない。
私は少し困った顔をして先生を見下ろした。
先生は穏やかな表情で私を見上げている。
先生はいつも、落ち着いていて物腰柔らかな印象だった。
その印象は今こうして向かい合っていてもおおよそ変わらない。
けれど、私は気付いた。
全体として柔和に見えるその顔つきは、瞳だけ切り取って見たとき、その心証を大きく変えることに。
先生の眼光は思いの外鋭かった。
空色の瞳には鷹が潜んでいた。
鋭いクチバシでこちらを窺っている。
爪を隠しているので普段は気付かないけれど、確かに、その空を舞っている。
でも、こちらを害そうとする気配はなかった。
警戒し、巡回し、見守っているような視線だった。
私は結局、先生の隣に腰を下ろした。
膝を腕で抱き込む。
それを見た先生が、苦笑いを浮かべて、足を下ろしなさいと言った。
「何かしたみたいなんです、私。ブラウンくんに」
「クローゼが、ブラウンに?」
私は頷く。
状況を簡単に説明した。
「何をしたのかわからないんです。みんなも、教えてくれない。…みんなは知ってるんです。私だけ、何が何だかわからない。それが嫌なんです」
先生は口元に手を遣る。
何かに思いを巡らせているようだった。
「例えば」
しばらくして、先生は口を開いた。
「レオンハートがクローゼに重大な秘密を打ち明けたとする。ブラウンは幼なじみだからそれを知っている。キルシュタインは偶然それを知った。だが、ボットは知らない。ある日、その秘密が原因でレオンハートがひどく落ち込んだとする。ボットはとても心配している。クローゼは原因をボットに伝えるか?」
私は目を閉じた。
先生の言葉をよく咀嚼する。
目を開けて、先生の顔を見た。
「言わないです」
先生は頷いた。
「クローゼに非がなくても、打ち明けられないことはあるものだよ」
胸の中で冷たく固まった氷が、少し、小さくなる。
そう…そうかもしれない。
「はい…そうだったらいいな…と、思います」
先生は頬を緩めて私に問う。
「解決、というわけではないようだね。彼らが信じられないのかな?」
私は俯いた。
私が彼らを信じていないわけではない。
違う、と首を振る。
ただ、私は思うのだ。
「信じてほしいんです。私を」
そう、信じてほしいのだ。
私は心からそれを切望している。
熱望している。
渇望している。
「信じてほしいんです。信じてほしいんです!私、今度こそ――」
――しかし、それはあまりにもおこがましい話だと「わかっている」。
「今度こそ?」
先生は丁寧に反復する。
私はハッとして、自分が思わず口走った言葉に首を傾げた。
「今度こそ…?って、何だろ?」
先生は目を細めた。
遠くにあるものを少しでも鮮明に見ようとするように。
それが見えたのかどうかはわからなかったが、先生はふと「今隣にいる私」に視線を戻した。
そんな風に見えた。
「時間は常に前に向かって流れている。もしクローゼが『今度こそ』と望むなら、その可能性は無限に存在している。信じてほしいと願うなら、そう努力することができる。今、もしそれが不完全なら、望みが叶うように行動しなさい」
「望みが叶うように、行動する…」
「そう、方法はいくらでもあるよ」
「方法…」
「今の気持ちをすべて打ち明けてもいい。彼らに対して正直に行動することでそれを示してもいい。何より重要なのは、自分で考えて試してみることだ。大抵のことは、失敗してもやり直しがきく。我々は今、そういう世界に生きているのだから」
私は先生を見上げた。
言い様に、妙な含みがあるように聞こえた。
言葉の奥に何か重要な示唆が秘められているような気がして、私は落ち着かない気分になった。
先生の瞳に答えを探す。
しかし、先生は穏やかに笑うだけだった。
先ほどの鷹はもう見えない。
「さぁ、もう鐘が鳴る。そろそろ行こうか」
「あ、はい…」
先生に促されて、私は立ち上がった。ゆっくりと階段を下りていく。
「あの、先生…」
「何だ?」
「ありがとうございました」
先生はゆるりと笑む。
「いや。私も様子が聞けてよかったよ」
先生の笑顔に、私もようやく表情を緩めた。
「はい」
四階まで下りてきたところで、先生は立ち止まった。
私は不思議に思って振り返る。
「クローゼ」
「はい」
「大丈夫だ。君たちは上手くやれる」
「え」
先生はスッと手を上げた。
「ブラウン!」
廊下の先に向かって叫ぶ。
私は短く驚きの声を漏らして先生の向く方向を見遣った。
数メートル先でがっしりした背中が立ち止まる。
ライナーが若干ぎこちない動作でこちらへ振り向いた。
先生を目に留めて、戸惑いの表情を覗かせる。
躊躇いがちにこちらに駆け寄ってきた。
が、途中からその速度を上げる。
私に気付いたようだった。
「クローゼを探していたんだろう?」
ライナーは目に見えてホッとした様子で肩を落とす。
「はい」
「では、私はここで失礼するよ」
「え、先生、あの…」
私は思わず声を上げる。
が、先生は一度にっこり微笑んでから、さっさと階段を下りていってしまった。
「あ…」
私は唐突にその場に置き去りにされた。
「ルーラ」
ライナーがそっと私の名を呼んだ。
シャボン玉を吹くように、綿毛を空に飛ばすように、そっと呼んだ。
「ライナー…あの…」
「チャイムが鳴る。戻るぞ」
彼は微笑した。
心配ないからと、伝えてくれているようだった。
私はなんだか安心して、目尻を下げた。
「うん」
――大丈夫だ。君たちは上手くやれる。
鼻の奥がツンと痛んだ。
(20140512)
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