その手をつかんで

17.袖、振り合う


私は宙を疾駆している。

腰元から伸びるワイヤーに体を引かれ、全身の筋肉を酷使して、体中に巻きつけられたベルトに体重を移す。

そうすることで重心をコントロールする。

レバーを操作してワイヤーを巻き取る。

トリガーを引いて新たにアンカーを打ち付ける。

目まぐるしく変わる景色に我を失わぬよう、集中力を保ったまま宙を駆ける。



決して気を抜いてはいけない。

装置の操作を誤れば死は免れないから?

もちろんそうだ。

人は自分の力で飛ぶことはできない。

そして、装置は100パーセントその人間の意思を汲んではくれない。

だが、それだけではない。

奴らがいるからだ。

私はそれと戦い、そして逃げている。

周囲は金臭い臭気に満ちている。

紅い液体が所々に叩き付けられている。

地響きと、そして悲鳴がそこここで聞こえる。



私の頭上に影が覆い被さった。

巨大で平たい物体が振り下ろされる。

それは手の平だった。

私たち人間と同じ、しかし私などすっぽり包み込んでしまうほど大きな手が勢いよく降ってくる。

私は戦慄と共にアンカーを発射する。

寸でのところで指の間をすり抜け、空中に飛び出した。

しかし飛び出した先に――








私は目を覚ました。





入学式から五日が経過し、高校生活最初の週が終わろうとしていた。

私は理科室に急いでいた。

教室に筆記用具を忘れてきて、取りに戻っていたのだ。

あと二分でチャイムが鳴る。

走らないと間に合わない。

勢い良く廊下を曲がった途端に、強い衝撃を感じて後ろに弾き飛ばされた。

誰かにぶつかってしまったみたいだ。

大きくて硬い体つきだったから、おそらく男の子だろう。

厚い胸板の感触があった。

よく鍛えられている。

万年運動部の私は、どうでもいい値踏みをしていた。

「ご、ごめん。大丈夫?」

男性の中でも低い部類に入る声が上から降ってきた。

少しくぐもった、ぼそぼそした声だ。

私は反射的に顔を上げた。

見下ろす彼と視線が合う。

彼の表情が一瞬にして凍りついた気がした。



大きな人だった。

身長190センチはあるだろうか。

体格のいい体は、その身長のせいで主張を弱め、むしろひょろりとした印象を与える。

顔つきは、温厚、というよりも気が弱そうと言ったほうが近い。

申し訳なさそうに下がった眉と小動物のようなつぶらな瞳がそう見せるのかもしれない。



私は、その瞳の揺らめきから、目を逸らせなくなった。

彼につられたのか、落ち着かない気持ちになっていく。

動揺が、早朝の穏やかな波のように全身を満たしていった。



私は頭を下げることで視線の拘束を解いた。

「ご、ごめんなさい!急いでたんです。次、移動教室で」

この階にいるということは上級生かもしれないと思い、丁寧に謝罪する。

彼も慌てて頭を下げた。

「僕も、ぼうっとしてて…」

彼はそのまま床にしゃがみ込んだ。

床には私が手に持っていた教科書やノート、そして筆箱の中身が散乱している。

「あ、す、すみません!」

私は恐縮してすぐに彼に続いた。

追い打ちをかけるように始業のチャイムが鳴り響く。

「わっ、鳴っちゃった!」

おろおろする私の前に、彼が拾ってくれたペンが差し出される。

「これ…」

「あ、ありがとうございます!すみません、授業始まっちゃいましたね。本当にごめんなさい、ありがとうございました!」

私は振り子鳥のようにお辞儀を繰り返し、全速力で走り出した。

う、うん。

という控えめな返答が背中越しに聞こえる。

本当におとなしい人なんだなと独りごちながら理科室を目指した。

その時、ふと、アニの言葉が頭を掠める。



――体は大きいくせに気は小さいやつだよ。



私はハタと足を止めて背後を振り返った。

廊下にはもちろんもう誰もいない。

もしかして、今のって…。





静まり返った廊下を駆け抜け、理科室にたどり着いた。

後ろ側の引き戸をそうっと引く。

自分が通れるだけの隙間を確保したところで、姿勢を低くして室内への侵入を試みた。

が。

「ルーラ・クローゼ!遅刻だよ!」

入った瞬間に先生に見つかった。

みんなの視線が一斉に私に集まる。

私は顔を引きつらせながら直立した。

マルコが労わるように、ジャンがざまあみろと言わんばかりに、ブラウンくんがいかにも愉快げに笑みを浮かべている。

アニに視線を移すと、呆れ顔の口が「バカ」と動いた。

「私の授業に初日から遅刻してくるなんて、いい度胸だね」

元気のよさそうな若い女の先生だった。

ハンジ・ゾエと黒板に大きく書いてある。

「す、すみません…」

「遅れてきた罰に何をやってもらおうかなぁ?」

私はギョッとした。

罰って、何をやらせるつもりだ。

理科室の掃除とか、先生の手伝いとか?

め、めんどくさい…。

「そうだな、私の良いところ10個、言ってもらおうかな」

私は沈黙した。

もっとめんどくさい!!

だいたい何で、初日の授業がいきなり理科室なのよ。

という心の叫びは、外に漏れることはなかった。





(20140118)


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