その手をつかんで

59.世界は果てなく広がっている


ジャンとマルコは中庭を横切る連絡通路の途中で足を止めた。

「おいマルコ、ありゃ一体どういうことだ」

不愉快丸出しのジャンは、マルコに目を向けて顔を引きつらせた。

ジャンを斜に見据えるマルコの顔が、ジャン以上に不機嫌だったからだ。

「そんなの、僕に聞かないでくれよ」

その声は、普段のマルコからは想像もつかない程に低い。

二人の視線の先にあるのは、ベンチに座るルーラの姿だった。

ルーラとジャンが喧嘩をしたあのベンチだ。

そこにはもう一人、男子学生が座っていた。

エルド・ジン。

弓道部の先輩で、ルーラとは妙に仲が良い。

ジャンは、彼もまたあの世界に縁のある人間だと知っていた。

記憶を取り戻した今となっては、ルーラもそれを知っているはずだ。

それを承知で、二人はどのような関係を築き上げているのだろうか。

彼は、あの世界でのルーラを知っているのだろうか。

疑問がどっと湧いてくる。

二人はえらく親密そうに会話を交わしている。

時折ルーラが見せる笑顔は、相手を完全に信頼し切っていた。

と、ルーラが笑い声を上げて何かを囁く。

それに反応し、エルドがルーラの頭を乱暴に撫で回した。

二言三言言い返し、それにまたルーラが笑う。

チラリ、とエルドの視線が二人と絡んだ気がした。

気のせいだろうか。

ジャンはマルコに視線を走らせる。

マルコもピクリと反応していた。

どうやら気のせいではないらしい。

ハッとマルコがベンチの奥を見遣った。

怪訝に眉を顰め、マルコの視線を追って、ジャンも思わず口を開ける。

反対側の連絡通路にベルトルトが硬い表情で立ち尽くしていた。

なんというタイミングの良さ。

いや、タイミングの悪さと言うべきか。

ふいに、エルドがルーラとの距離を詰めた。

その距離は必要以上に近いように思える。

にもかかわらず、ルーラは一向に気にする様子を見せなかった。

相変わらずエルドの言葉に、楽しげに笑ったり頷いたりしている。

やがてエルドは立ち上がった。

「それじゃ、放課後、屋上でな」

意味深な台詞をその場に残し、彼は中庭を後にした。

ルーラは苦笑して、お辞儀をする。

しばらくして、彼女も中庭を後にした。

終始、マルコとジャン、そしてベルトルトの存在には気付かなかったようだった。

止まった時が唐突に動き出したように、マルコは何の前触れもなく歩き出した。

ジャンは慌てて後に従う。

今話し掛けるのは得策ではない。

本能がそう告げるので、大人しく黙っていた。

視界の端で、ベルトルトがのろのろと歩き出すのを捉えた。





ルーラは一度話を聞いてもらった時からお馴染となった中庭のベンチでエルドと雑談していた。

エルドは気さくで面倒見のいい、頼れる先輩だった。

何かと気を回し、声を掛けてくれる。

それはルーラに限ったことではなく、部員たちや、おそらく彼の周りにいる人間全てに対してそうであった。

あの世界の彼も、きっとそうだったのだろう。

ルーラは思う。

だからあの時、声を掛けてくれたのだ。

今の彼と同じように。

「記憶、戻ったんだな」

「――はい。わかりますか?」

「ここ最近、様子がおかしかったからな。お前だけじゃなくて、周りもだ。けど、ふっ切ったって顔してるな」

「はい」

「俺のことは覚えてるか?」

「覚えてます。一度、声を掛けていただきましたよね。あの時も私、先輩に話聞いてもらいました」

「そうだったな。で、相変わらず今も悩みを抱えてるわけだ」

「え?いえ、今はむしろ解決したっていうか…」

「一体、自分は誰のことが好きなんだろう――とかな」

「えっ!?」

エルドはニヤリと笑みを浮かべた。

思いもよらぬ彼の指摘に、頭が一瞬真っ白になる。

言葉の意味を理解した途端、羞恥心が火を噴いた。

ルーラの顔は一気に真っ赤に染まる。

「な、な、な…!」

「図星だろ」

「違います!そんな、私、今は、そんなこと」

「今は?それはこれから考えるってことか?」

ルーラは更に焦る。

「そ、そういう意味じゃなくて!」

エルドは小気味よい笑い声を上げた。

「照れる必要なんてないだろ」

「照れてるんじゃ…」

ルーラはしどろもどろに答えながら、自身の無意識を言い当てられたことに気付いていた。

考えないようにしていたつもりが、意識下では常に考えていたのだ。

ルーラは自分の気持ちがわからなくなっていた。

マルコに告白されたあの日から。

あの場でマルコの想いに応えることができなかった。

中学時代の自分だったら、迷わず受け止めていたはずの彼の想いに。

ベルトルトの顔が過った。

その瞬間、マルコへの罪悪感が湧き上がった。

そして、ベルトルトへの、愛情と郷愁の間のような感情が流れた。

ルーラにはそれが、今の自分の気持ちなのか、過去の自分が反応しているのか、判断できなかった。



――ありがとう。マルコにそんなこと言ってもらえるなんて、私にはちょっと身に余る気がするよ。



ルーラは目を瞑る。

あの時の会話が甦った。



――でも、今はまだわからない。ごめん。まだ考えられないの。もし、今答えが欲しいってマルコが望むなら、ごめんって答えるしかない。もし――

――わかってる。ルーラが自分の気持ちを見つけたら、答えを聞かせてほしいんだ。

――待たなくても、いいんだよ。



なんて傲慢な言い様だろう。

今まであれだけマルコを頼ってきたというのに。

彼がそこまでしてくれた理由が、少なからず彼の告白の中に含まれているというのに。

それをこんな一言だけで清算しようとするなんて。

それでも、マルコは言った。



――待ちたいんだ。



ルーラはその言葉を何とも形容しがたい感情と共に受け止めたのだった。



――ありがとう。



それは、歓喜とも痛みとも似ていた。





気付いたら、ルーラは大きなため息を漏らしていた。

「決まりだな」

「え?」

「放課後、屋上に来い。話聞いてやる」

「え、屋上って…」

「屋上への扉は開かない。普通のやつらにとってはそうだ。だが」

エルドは意味ありげに鍵をちらつかせた。

「せ、先輩、それってまさか…」

「そのまさかだ」

「先輩だったんですか!スミス先生が犯人捜してましたよ!?」

エルドはさほど悪びれる様子もなく肩を竦める。

「あの先生に見つかると厄介だな」

エルドの大胆さに、ルーラは呆れて笑ってしまった。

「共犯になるのは御免です。自首してください、先輩」

エルドはこのやろう、とルーラの頭を掻き回す。

「先輩を売ろうってのか。いい度胸だ」

「どっちにつくのが利口か考えた結果ですよ」

「薄情な後輩だな」

「恐縮です」

ふと、エルドの視線が泳いだ気がした。

しかしそれは一瞬のことだったので、ルーラの意識には残らない。

エルドがルーラとの距離を少し詰めた。

そして、小声で囁く。

「まあそう言わず、一度来てみろよ。気持ちいいぞ。それに、先輩の意見は聞いとくもんだ。お前にビジョンを示してやろう」

「ビジョン?」

「そうだ。例えば、お前の悩みの選択肢は、決して二択に縛られるもんじゃない、とかな」

「え?それはどういう…」

「もちろん、第三の選択肢も存在するってことさ。例えば、俺を選ぶ、とか」

ルーラは目を大きく瞬かせた。

そして堪え切れずに吹き出す。

「私、先輩に彼女がいるの、知ってますよ」

エルドは悪そうな笑みを浮かべた。

「なんだ、知ってたか」

「ラル先輩から聞いてます」

エルドの口が曲がる。

「あいつは相変わらずおしゃべりが好きだな」

ルーラは苦笑した。

「でもま、俺じゃなくても他に男がいくらでもいるのは確かだ」

「それはまあ…そうですけど。まったく、私が本気にしたらどうするつもりだったんですか」

エルドは軽い口調で言った。

「ならないだろ」

しかしそこには絶対的な確信が含まれていた。

ルーラはエルドの感覚の鋭さを改めて意識させられ、言葉に詰まった。

「それに、俺に彼女がいることをペトラが黙ってるはずもないしな」

「なるほど」

エルドは立ち上がった。

「とにかく、続きは場を改めてだ」

そして、念を押すように声を大にして言う。

「それじゃ、放課後、屋上でな」

ルーラは苦笑した。

屋上の件は決定なのか。

まあ屋上がどんな様子なのか興味がないわけでもないし、一度くらいいいか。

そう判断したルーラはひとつお辞儀をして、自分もその場を後にした。





(20140830)


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