43.前進せよ
部活後の帰り道、どうしてもそれ以上歩くことができなくなってしまった僕は、近くの公園のベンチに座り込んだ。
そんな僕に当たり前のように付き合って、ライナーとアニも腰を下ろす。
僕は地面に沈み込むほど項垂れた。
いっそ土の中に埋まってしまえたら、どれだけいいだろう。
あれ以来、僕の心は罪悪感と後悔で隙間なく満たされ、もはやそれ以外の感情を思い出すことができなかった。
ライナーとアニも、さすがに声を掛けあぐねているようだった。
だが、取り繕うだけのゆとりは残っていない。
「…ルーラの…クローゼさんの様子はどう?」
ライナーは僅かに眉を寄せた。
何か言いたそうに口を開くが、結局視線を伏せてしまう。
ポツリとこれだけ呟いた。
「眠そうにしてるな」
僕は目元を険しくした。
「眠れて…ないのか」
アニがチラリと僕を見上げる。
「子守唄でも歌ってやれば」
無感情に、嫌味なのか軽口なのかわからないことを口にする。
何かを言った方がいいと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった結果なのかもしれなかった。
「なあ、ベルトルト…何もお前のせいだと決まったわけじゃ…」
ないだろう、という言葉は、闇夜に霧散して消えた。
二人とも、おそらくそうなのだろうと思っている。
僕には間違いないという確信がある。
「僕が彼女に手を伸ばした時、彼女は僕の手を払って…」
自分の両手を見つめる。
この両手を業火で焼いてしまえたなら、少しは罪を償えるのだろうか。
しかし、この場に業火は存在しないし、あったところで僕にそれを実行する勇気なんてないのだ。
「首を庇ったんだ」
ライナーが顔色を変えた。
みるみるうちに表情が崩れていく。
それはまるで、握り潰された空き缶みたいに、歪み、尖り、傷ついていた。
「忘れるわけ、ないよな」
僕は深く頭を垂れる。
「話が見えないんだけど」
アニが僕たちを軽く睨んだ。
ライナーの喉が小さく鳴る。
「俺たちは…ルーラを殺そうとした」
「違う」
僕はきっぱりと否定した。
「僕が、殺そうとしたんだ。ライナー、きみはあの時僕を止めた」
ライナーは首を振る。
「俺も最後は、仕方ないと…そう思った。あれは俺たちの罪だ」
アニは僕とライナーを見つめた。
海の音が聞こえるような、静かな眼差しだった。
やがてアニはため息をつく。
そんな事だろうと思った、とか、あの時の立場ならあり得ることだ、とか、そういう類の納得のため息だった。
境遇に同情してくれているようでもあり、そのことが思いの外、心に沁みた。
「あいつも…思い出すんだろうか」
ライナーが海底に石を落とすように呟く。
僕は石が沈んでいく音に耳を澄ませた。
底に辿り着いた石は、ゴツ、と嫌な音を立てる。
砂を巻き上げて、水を茶色く濁らせた。
ああ、気持ち悪い。
「僕は…怖い」
吐き気がして、口元を押えた。
「彼女が…僕の罪を思い出してしまうのが、怖い」
背中に手の感触を感じた。
手の大きさでわかる。
手を添えてくれたのはアニだった。
「彼女はきっと、僕を責めない。責めないで、ただ恐怖の瞳を向けるんだ。あの…あの目だ…怯えた…壁上で目が合った時の、絶望した彼女の瞳…僕が強いた…僕が…僕のせいで…」
感情が高ぶり、興奮して胸が苦しくなる。
急にえづいたと思った次の瞬間、僕は地面に嘔吐していた。
ライナーが焦って立ち上がる。
「ベルトルト、大丈夫か」
彼の大きな手が背中を撫でる。
途中でアニの手とぶつかって、悪いと謝るのが聞こえた。
すえた臭いが立ち昇ってくる。
その臭いに、更に気分が悪くなった。
アニがタオルを差し出してくる。
汚れてしまう、と僕が躊躇っていると、無理やり口に押し当てられた。
「ご…ごめん…」
「いいから」
「ほら、水飲め」
僕はライナーが渡してくれたペットボトルを口に運ぶ。
冷たい水が喉を滑っていくと、少しだけ持ち直した。
「少し移動しよう。あっちにもベンチがある」
僕は頷いたが、膝が震えて力が入らない。
結局ライナーに負ぶわれての移動となった。
ベンチに座ると、アニが隣で支えてくれた。
ライナーは落ちていた新聞紙で後始末をしてくれている。
こうなった原因の僕だけが、何もせずに力なく項垂れていた。
「落ち着いた」
アニが独り言を零すように尋ねる。
僕は情けなくなって、ただ頷く。
そう、とだけ言って、アニは黙りこんだ。
やがてライナーが戻ってくる。
励ますように肩を叩いて、隣に腰を下ろした。
僕たちはしばらく無言のまま、夜風に吹かれている。
「あんたがどんなに怖がっても」
唐突にアニが口を開いた。
僕とライナーは彼女の横顔を見つめる。
「あの子は近いうちに思い出すよ」
その時は近い。
わかっていた。
ライナーの記憶が戻ったように、ルーラの記憶も、間もなく戻る。
思えば、他の仲間たちが同じ学校に集まっていることに気付いた時から、微かな予感はあったはずだ。
だが、目を逸らし続けてきた。
一向に向き合うことが出来なかった。
ただ、怖れだけが膨れ上がり、僕の存在を揺さぶっていた。
ルーラの記憶は戻る。
そして彼女には、僕に恐怖の視線を向け、拒絶する権利がある。
僕には、それを受け止める義務がある。
「わかってる…わかってるんだ…」
また息が上がってくる。
「お、おいベルトルト、落ち着けって。アニ、今日はもう…」
ライナーが狼狽してアニを止める。
アニは緩くため息をついた。
「これから返せって、言われたんじゃないの、ジャンに」
ライナーはハッとアニを見遣った。
「確かに過去は消えない。けど、私たちはあの頃とは違う」
「そう…そう、だよな…」
ライナーはしばらく思考の海に沈んでから、フッと浮き上がり、僕に視線を合わせた。
彼の真っ直ぐで力強い瞳は、記憶が戻る前も、記憶が戻った今も、そして、あの頃も、変わらない。
その眼差しは、その時々によって僕に様々な感情をもたらしたけれど、今はひどく心地よかった。
僕の心も、つられて少し浮上したような気がした。
「俺の記憶が戻った時に、ジャンが言ったんだ。ウジウジしたいなら勝手にしろ。でも、そんなことしてても、過去は変えられねーってな。だから、どうしても納得できねえなら、これから返せ、だと」
僕は目を瞠った。
「ジャンが…」
ライナーは頷く。
「俺は…今はこの言葉と向き合いたいと思ってる」
アニが、同意するように首を振った。
「アニの言うとおり、あいつは多分、そう遠くないうちに思い出す。混乱するだろう。俺たちを見て、動揺して、拒絶するかもしれん。その時、俺やお前まで動揺すれば、あいつは更に動揺する。混乱からの回復が遅くなればなるほど、あいつに負担がかかる。お前はそれでいいか」
「…よく、ない」
ライナーはうっすら笑った。
「なら、気を強く持たなきゃな。俺たちが今までしてきたことを悔いるより、俺たちがこれからあいつにしてやれることを考えるんだ。あいつと関わらないように、なんて考えは捨てろよ。既にここまで関わっちまってるんだ、避け続けるのは無理ってもんだ」
そう、なのだろうか。
「なあ、ベルトルト。あいつのために何をしないかじゃなくて、あいつのために何ができるかを考えるんだ。その方があいつのためになると思わないか?」
僕の瞳の奥の意志が、震えるように揺らめく。
僕は窺うようにアニを見た。
アニはそっとため息を落とす。
「私はずっと、そう言ってたと思うけど」
ライナーに視線を戻す。
ライナーは大きく頷いた。
そう、なのかもしれない。
僕も精一杯頷いた。
「前に進もう、俺たち」
(20140615)
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