その手をつかんで

42.自由の翼


フーバーくんとともに倉庫に閉じ込められた日の夜、私は結局眠ることができなかった。

眠ることへの激しい抵抗感が絡みついて離れなかったのだ。

今まではマルコがそれをほどいてくれた。

でも、マルコに頼るのはもう止めにした。



ジャンの射抜くような視線が過る。

――あいつは拒否しねえだろ。お前から言われればな。



ジャンの言葉はきっかけに過ぎない。

もうずっと前から、そうしなければならないと思っていた。

――いいんだ、ルーラの好きなようにして。

そう、マルコはいつでも私を受け入れてくれるのだ。

あんな風に抱きついて大泣きしても、ただ優しく頭を撫でてくれる。

幼なじみというだけで。

いや、ただの幼なじみとも少し違う。

私とマルコの関係は、なんとも曖昧だった。

そして、関係が曖昧なのは主に私のせいだ。

ジャンと話した後、私はそれを痛感した。

そして、何となく感じた。

マルコは私を待っている。

それも、気の長くなるほど辛抱強く。

何を待っているのかは、まだよくわからないが。



一度マルコの庇護の元から離れなければと思った。

そうして客観的に、マルコとの関係を見つめ、マルコという人間を見つめ、自分自身を見つめることが必要だった。

だから、今回の混乱は自分自身の力で乗り切りたかった。

乗り切らなければならなかった。



だが、翌日も翌々日も、とうとうろくに眠ることはできなかった。



あの時、瞬間的に込み上げてきたあの感情は何だったのだろう。

フーバーくんが私に手を伸ばした時、とっさに首元を静電気のようなものが走った。

そして、痛みと紛うほどの悲しみと、悲しみを突き上げるような切なさ。

それはすぐに弾けて不安に変わってしまったが、確かにあった感情だった。

しかし、今はもう、不安や恐怖しか残っていない。

そして、それ以来、不安は身体に染みついて離れなかった。



私はスミス先生の言葉について考えた。

夜、眠るのが怖い時はどんな時か。

――例えば、何かを思い出しそうな気がする時、ということは?

どうだろう?

怖い、とそう思う時、私はその感情に飲まれてしまっている。

自分の鼓動が嫌に激しく脈打ち、身をよじるほどに胸が痛む。

堪えるだけで精一杯なのだ。

原因を考えるゆとりなどなかった。



でも、最近その影を捉えた気がする。

泉だ。

砂漠の底に潜む静謐な泉。

泉が目を覚まそうとしている。

封印が解けようとしている。

気を緩めれば、地表に染み出してくる気がする。

今度眠ってしまえば、もうきっと押えてはおけない。

そんな、胸騒ぎを伴う予感がある。

大量の水が、砂の大地を突き破って、地上に溢れ出てくる。

地下深く沈めておいた、二度と目にしなくて済むはずだった真実の泉が、私を飲み込むのだ。

それだけはダメだ。

何が何でも阻止しなければならない。

でないと、きっと自分を保っておくことができなくなってしまう。



だから、眠るのが怖いのだ。

――クローゼは、夢を見るか。

胸が騒ぐ夜、マルコの隣で何とか眠りにつくと、その日は悪夢にうなされた。

しかし、朝起きると、私はその内容を覚えていない。

何故?

思い出すことを拒否していたからだ。

たぶん、その悪夢の中身こそが、泉の正体なのだ。

――一度ゆっくり考えてみるといい。その先に、君の疑問の答えがあるかもしれない。

とすると、私の疑問の答えは悪夢の中に――泉の中にあるということになる。



私がフーバーくんを苦手な理由が、夢の中に?



私とフーバーくんには高校に入るまで接点がない。

なのに、幼い頃から私を悩ませる悪夢に、フーバーくんが関係しているなんてことがあるだろうか。

しかし、昔会ったことがあるかと彼に尋ねた時、答えるまでに一瞬の間があった。

違和感のある間だと思った。

彼の表情にも動揺が見えた。

やはり、どこかで会ったことがあるのだろうか。

何か理由があって、自分はそれを忘れている?

だとしたらそれは何だ。

どんな理由で、自分はそれを忘れているのだろう?

スミス先生はその答えを知っているのだろうか――



待て。



私は気付いた。

先生の言葉はよくよく考えればあまりに意味深だ。

そもそも、何故彼はこんなことを私に言ったのだろう。

彼はまるで、私の状況について、私以上に理解しているような口ぶりではなかったか。

一体、何を知っているというのだ。

まだ会って一年にも満たない、生徒と教師という関係の相手について。







「クローゼ」

そんな悶々とした日々を送っていたある日、スミス先生に呼び止められた。

「顔色が悪いな。体調が悪いのか」

「え?あ、いえ、特には…」

「眠れていないのか?」

「え…?」

私は未だに、ろくすっぽ眠れていなかった。

そしてそれは、じわりじわりと、私の体力を削り取っていた。

少しずつ、疲れが出始めていた。

先生は緩く笑む。

「少し、話を聞かないか」

歩き出した先生が向かったのは、屋上へ続く階段だった。

階段の一番上に座り、私にもそうするよう促す。

私は大人しく従った。

「睡眠を軽んじてはいけないよ」

「軽んじているつもりは…ないんですけど…」

先生は頷いた。

始めからそれはわかっていたようだった。

「クローゼは、『華胥の夢』というのを知っているか」

「華胥の…夢」

「東国の故事だよ。太古の聖王と知られた帝が、ある時、政道に迷い、焦る。そんなさ中、彼は昼にまどろんで夢を見るんだ。そして、その夢の中で華胥の国という理想郷に遊ぶ。その国では、人々はみな安らかだった。帝はやがて夢から覚め、悟りを開いた。その後、無心のうちに道の極致を会得した帝の天下は、大いに治まったという」

私は、その話に聞き覚えがあった。

どこで見聞きしたのかはわからない。

授業ではないし、親から聞いた覚えもない。

が、ともかくも私はその話を知っていた。

「聞いたことがあるような気がします。なんとなくのうろ覚えですけど」

先生は微笑した。

どこか懐かしんでいるような面差しに見えるのは気のせいだろうか。

つまり、と先生は続ける。

「眠ることによって、得られるものもあるということだよ。眠ることによって、自分の探す真実が見えることもある」

私は目を瞠って先生を見上げた。

やっぱりだ。

この何かを示唆するような含んだ物言い。

私は思わず声を大きくした。

「先生は!何を知ってるんですか」

先生は変わらず笑みを浮かべている。

眼差しが、私のさらに奥に向けられているような気がした。

その表情は私を落ち着かなくさせる。

「先生は…何でそれを知ってるんですか…まだ担当して一年にも満たない生徒のことなのに…何で…」

自然と気分と共に重くなった頭が落ちていく。

「私は…それを知らなければなりませんか?」

「知りたくないのかな?」

「怖いんです!フーバーくんとのことだけじゃない。マルコやジャンや…他の色んなことも全部おかしくなっちゃいそうで…」

「痛みの先にある幸福もある。そうは思えないかな?」

私は緩慢な動作で先生に視線を戻す。

「クローゼは眠るのが――いや、夢を見るのが怖い。そして、それと同じ種類の怖れをフーバーにも感じている。そうだね?」

私は頷いた。

「とすると、その夢が何なのかを確かめれば全ての原因がわかるし、確かめなければ、この先もその恐怖はずっと続くことになる」

私は俯く。

わかっている。

「クローゼの前には今、巨大な壁が立ちふさがっているんだろう。そして、その向こう側に何か怖いものがあるということだけは知っている。だが、それ以外のことは何も知らないんじゃないのか」

私はハッと息を飲む。

その壁の向こうに広がるもの――その言葉に強い引力を感じた。

壁の向こうに広がる世界を見つめていた自分がいた気がする。

「壁の向こう側に、その怖いものと一緒に、それ以上の価値あるものが存在しているかもしれない。そうは思わないか?」

先生は真っ直ぐに私を見つめていた。

意志のこもった強い視線だ。

私は咄嗟に言葉を返せなかった。

その間に、先生は目尻を緩める。

「一つの考え方だよ。とにかく、このままではクローゼの体力がもたないだろう。仮眠でもいいから、眠りなさい」

「…はい」

先生は穏やかに笑んで立ち上がった。

「話はここまでだ。戻るとしよう」

「はい」

私は階段を下りていく先生の背中に、何かの模様を見た気がした。





(20140611)


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